由良部正美
78〜81年、舞踏グループ<東方夜總會>メンバーとして、ソウル第三世界演劇祭、ジャワ-バリ舞踏キャラバン等、そのほぼ全作品に出演。退会後、ソロダンサー、演出、振付家として様々なジャンルのダンサー、アーティストと交わりながら仕事を続けている。87年からアートパースペクティブの主宰者としてワークショップや舞台活動をする。90年、96年と二度渡欧し、公演、ワークショップを行う。主なオリジナル作品として「赤馬物語」「夢の入射角」「転身物語」「ピエタ」「KOMACHI」等がある。
16日には同じトリイホールで由良部正美舞踏公演「刻6」を見る。冒頭の楽屋口の扉をバタンバタンと開け閉めする場面に象徴されたような由良部の身体とその動きの美しさに夢中になった一時間余だった。
彼の堂々とした動きを追いながら、ぼくは美しさというものがどうしてこんなに警戒心をもたらすのかを自ら訝しんでいた。Rosaにおいてもそうだったが、自分が演じられている美しさに陶酔しそうになればなるほど、醒めていく部分を発見することになる。ただ酔っていればよいのかもしれない。そのためには美しさが足りなかったのか? そうだとは思わない。美が不安だとはどのような心なのだろう? それが震災のせいとばかりは思えないが、いくぶんかはそうだったとしたら、とんでもないことを経験してしまったものだ。(JAMCi '95 6月号)
それにしても後半でスリップを着て出てきた由良部の眼ざしは一見そうかと思えたやさしさではなく、むしろ強い覚悟を湛えた包容と諦念の哀しさとして、人間である聖母マリアが突き当たったわが子イエスとの超え難い懸隔を表わしているようで、胸に刺さった/由良部は神と人、男と女、母と子の間を往還し、そのつながりの強さ、隔たりの大きさを余すところなく見せた/エイドリアン・フリードマンによる音楽も、殊に後半での尺八(片山旭星)による対位法的な曲が聖歌のようで美しく、由良部の求心的に凝縮された身体とその動きに相応しかった
由良部正美舞踏公演「ピエタ」 5月12日 千日前・TORII HALL 第2回OSAKA DANCE EXPERIENCE (JAMCi '96.8)
由良部正美インタビュー(全文)
由良部正美は近年、舞踏以外のジャンルのダンサーとの舞台も多く、その動きや思考が、舞踏の枠(そんなもの、あるのだろうか)を超え出て、大きな広がりを獲得しているように思う。身体とその動きの鋭利な美しさから紡ぎ出される作品は、ぼくたちが勝手に<舞踏>だと思わされているような範疇を鮮やかにすり抜け、普遍的な完成を勝ち得ている。十一月一日に西陣北座で上演された「小町/ピエタ」の二作品は、まさに現在の由良部の到達点を示すものだったと思う。彼に惚れ込んでしまった編集部のU女史と共に、京都で話を聞くことができた。
−−「ピエタ」も「小町」も何度も上演されてますね。
Y いろんなことやってきたんですけど、何か集まってきてる感じですね。自分の中のエッセンスとして今残ってるのが「ピエタ」と「小町」になってるんです。他の要素は捨てちゃってるっていうか、他の作品を作るっていう気がしなくって、今はこの作品をもっと結晶化したい。
−−両方とも大変ドラマチックな作品だと思うんですけど、それと同時に身体から余計なものがどんどん削ぎ落とされていく方向があるというか、それがエッセンスとか結晶とかいうことなのか、そういう作品に思えるんですよね。そして何だかいわゆる舞踏の方向性というのと、ちょっと違うような気もするんですが。
Y 別に舞踏という言葉にこだわらなくてもいいと思ってるんですけど、離れてるとは思わないですね。これは表面的な意味かも知れないですけど、わりと土方さんにしても、大野さんにしても、笠井さんにしても、キリスト者っていうイメージが強いですね。キリストっていうのは自分のからだの中にさまざまな悲惨を引き受けるわけですよね、一個の肉体の中に。霊の中っていうよりも、肉体に。これは舞踏の精神にかなり近い。一個の肉体の中に記憶があり、生命の流れがある、というような捉え方をすると、一つの肉体の中に全部の歴史が流れ込んできているという感覚は、どこかキリスト教っぽい感じがするんですよね。だから、あまりいわゆる地縁・血縁、土着とかいう感じはしないんです。
−−たしかに受難ということを考えてみたら、それはまさにいろんな精神が集約していく形であるし、そういう肉体への集まり方というのは、時間・空間を超えているのかもしれませんね。そういう意味で、すごく普遍的なんですね。
Y そんな感じでぼくの中では「ピエタ」というものがつながってる、という気がしてます。
−−「小町」は一人の女というからだの中に悲しみやら喜びやら、あらゆる感情をすべて込めていて、それを展開する。そういう意味で、やっぱり近いんですね。
Y ええ。どうしても日本的な情念というと、暗くて狭くて、四畳半の世界というイメージがありますけど、最後に使った「シェルタリング・スカイ」という音楽のような、中央アジアのような世界に持っていきたいというのがあったんです。日本ってそういう不思議さがあるんじゃないでしょうか。これだけ人間関係に機微があって、集団という意識が強いのに、禅のような個体意識っていうか、仏陀に会えば仏陀を殺せみたいな過激さが出る。そういう集団的な土壌が強ければ強いほど、屹立するものが出てくるという面白さがあるような気がして。(JAMCi1998年2月号掲載)