「蒼いくちづけ」「どの動きにも思いをこめて さよなら春野寿美礼」
「残像のようなダンサー〜花純風香の雰囲気」「アデュー・マルセイユ」「さよなら華城季帆」
「ファントム」「マラケシュ・紅の墓標」「野風の笛/レビュー誕生」「ダイヤモンド・アイズ」
「最後の最後は、チャーリー……」「琥珀色の雨にぬれて/Cocktail
「カナリア」「ミケランジェロ/VIVA!」「トム・ジョーンズの華麗なる冒険」
「あさきゆめみし/ザ・ビューティーズ」
「はじけた美しさ−サヨナラ千ほさち」、
SPEAKEASY/スナイパー」「ザッツ・レビュー」
安寿ミラインタビュー、「君に恋してラビリンス」、「冬の嵐、ぺテルブルクに死す」


蒼いくちづけ

 バウホール30周年を記念した今年のワークショップの上演作品が、どのような基準で選ばれたのかはわからないが、やはり実験性ということをポイントに置いていると思っていいだろう。すると、この『蒼いくちづけ』については、第一部と第二部で時代設定を変えたために、まず舞台の雰囲気がガラリと変わり、出演者も全く異なる人物を演じるような「落差」があることが大きかったのではないかと思われる。ワークショップと銘打つにはふさわしい構成である。少女マンガで、シリアスなストーリーに時折全く違う筆致で挿入されるコミカルな場面があったり、あとがきのような扱いで、やはり異なる筆致で後日譚のような番外編が添えられることがあるが、まさにそのような二つの味わいを楽しむことができた。

 また、プログラムの小池修一郎のコメントによると、前年に『ヴァレンチノ』でデビューした小池に、プロデューサーが空いている期間に「何ぞやれへんか?」と誘いをかけて実現した公演だそうで、若手演出家の育成というバウホール所期の目的にも合致したものだったようだ。

 再演なので、基本的には台本に関して特に言及する必要はないが、ブラームスの交響曲第四番をくどいほど繰り返して、荘重な雰囲気を出しているのは微笑ましく思えるほど。第二部が現代という設定であるために、携帯電話を使うなど、初演時にはなかったものを取り入れ、細かい笑いを誘っていた。ただ、第一場の蝙蝠たちのダンス、おそらくはアキコ・カンダの振付だろうが、横への動きがバタバタしていたり、窮屈そうな動きが目立ったりと、振付の魅力が十分引き出されていないように見えたのは残念。他の群舞のシーンでも、ただユラユラ揺れているだけで、身体に軸がないように見えたところがあった。第二部のストリート系のダンスでは、動きも揃っていきいきと出来ていたのに、今の若手はモダンダンス系の動きで苦労してしまうということだろうか。

 この公演は『ホフマン物語』とは異なり、主要な登場人物を演じる数名は、一方には出演しないということになった。ドラキュラ伯爵の真野すがた朝夏まなと、ヘルシング教授の紫峰七海望海風斗、ジョナサンの扇めぐむ鳳真由、ルーシーの華耀きらり月野姫花、である。その他、いわゆる主要な役ではないところで、レンフィールドやルーシーの妹たち、カーミラ(花野じゅりあ)の息子たちなど、「超若手」に大幅な役替わりがあった。ワークショップの課題として、デフォルトになっているのだろう。正直にいうと、すべてを把握するのは難しかった。

 真野版は、まず冒頭から、レンフィールド(真瀬はるか)の揺らぎのない存在感で一気に「あやかしの美」(プログラムの小池の言葉)の世界に引き込まれた。勘どころを押さえた丁寧な演技、歌のボリュームのコントロール、表情のつけ方、セリフのメリハリ、身のこなしなど、入団二年目の男役とは思えない説得力があった。蝙蝠たちに襲われおかしくなってからのモノローグや歌にも、迫真の凄みさえ感じられた。華耀とのコンビネーションもうまく、これからが非常に楽しみだ。

 真野のドラキュラは、歌で随所にヒスノイズが入るような押しの強さがとてもセクシーでいい。姿も美しいばかりでなく、世界に対して一瞬ためらいを見せてふるえるような独特の風情が漂っていて、何とも魅力的だ。それについては、もっと安定して堂々とした迫力がほしいという見方もあるだろうが、舞台という異世界に対する緊張感に満ちているようで新鮮に思えた。

 一途にルーシーを思う家庭教師役のは、張りのある高音が魅力的な歌やダンスがみごとなのはもちろんのこと、身体の傾きに勢いや迫真性があり、好演。紫峰は老け役に少々苦労していたようだが、第二部の社長役では、渋さやシャープさをうまく出せていた。ノエルの天宮菜生がテンポのいい演技を見せ、陽性の愛らしさを感じとることができた。随所でキレのあるダンスも見せ、存在感をアピール。第二部のパンツスーツ姿のシャープでチャーミングな女役姿が素敵だと思っていたら、娘役に転向するとのこと。今後の活躍が楽しみだ。

華耀は、時折のど先だけで歌っているようなところがあったが、うまさではなく愛らしさを見ていくと、大いに魅力がある。どんなシーンでも上品さを失わないのは、天性のものか。ドラキュラに永遠の命のための条件を提示され、催眠術にかかったように忘我の境地に入ってからのダンスは、流れるようで実に美しかった。

 一方の朝夏版も、なかなか充実していた。朝夏は低音が魅力的である一方、この世のものではないようなクールさがあり、生々しく感じられないのが不思議。存在感の大きさを自在にコントロールしているようなのだ。劇を決定づけるような大切なセリフの前に、フーッと身体が大きくなるような充実を感じさせることがあった。大きな目を印象的に使う表情、動き、粘りのある発声と呼吸が照応してたたずまいを大きく変えているのであろうか。クールな部分と激しい部分、またコミカルな部分での振れ幅が非常に大きく、スケールの大きさとなっている。

 二年目で大抜擢の月野は、一部でアニメ声といわれているようだが、実にはかなげでフラジャイルな、珠を転がすように愛らしい声をしている。「前日の深夜」のくちづけの後の、少し目が潤んだような表情など、よくできていると感心した。感情が激した時に少しセリフが流れてしまうようなところは見受けられたが、第二部での歌や動きはずいぶん堂に入っていたので、現代的な作りの方がすんなりなじむのだろう。課題は数多くあるだろうが、スタッフ共々、新しいタイプの娘役を創るつもりで、まっすぐ育ってほしい。

月野は、妹たちの花蝶しほ春花きららも含めて、これまでの宝塚の娘役では考えられないかそけき歌いぶりで、本当に驚かされた。ベルカントだとか腹式呼吸だとかいう舞台の発声の規範を超越して、愛らしさを結晶させたような表われとなっている。他の組の娘役の動向も合わせてだが、もしかしたら、かなり意図的に娘役アイドル化計画が遂行されているのではないかと思うほどである。

望海が年配の役に当たったが、落ち着きのあるいい歌でよく演じきった。大抜擢のだが、やや歌が弱く、大きな存在感を押し出すまでにはならなかった。春花は視線の力が強く、四肢を放り出すようなダイナミックなダンスがよく目立った。セリフのリアリティは、まだまだこれから。ノエルの冴月瑠那は容姿が愛らしいだけでなく、さわやかな出で立ちに好感がもて、歌もよく、これまたなかなか有望である。

 両公演を通して同じ役で出演したメンバーでは、貴怜良がダンスも歌も安定した実力を見せ、的確に脇を固めることができたのは、大きな成長ぶりであった。退団とは何とも残念である。今回組長格となった絵莉千晶も、カゲソロを含めた歌で舞台を引き締めたほか、ルーシーの母親マリアでシリアスな憂い顔を、ジョニーの母ローズでステージママのコミカルさを品よく演じ分け、役割を果たすことができた。

 花野がスタイルのよさを存分に発揮し、大きな存在感でいい味を出していた。ダンスの名手だけに、演技でも腕の動かし方が美しく、気品のある艶っぽさが感じられた。マクベス夫人ばりの演技も堂に入ったもの。

 彼女たちをベテランと呼ぶにはまだ早いかもしれないが、このあたりが通しで安定して充実した存在感を示せたことも、ワークショップの成果として銘記すべきことだと思う。他でも述べたが、短期間の役替わりによって得られる成果もあるだろうが、時間をかけてしっかりと役を深めることで得られる達成感も重要だ。それをベテランのほうに味合わせる結果になったことで、今後の彼女たちが公演の中で重要な位置を占めうることを証ししたように思われる。(200823月、バウホール)

どの動きにも思いを込めて〜『ラブ・シンフォニー』のダンスを中心に(さよなら春野寿美礼)

 春野は、一度も組替えすることなく、花組一筋で入団以来17年間、退団に至るということでも話題になっている。最近は、組ごとの個性や特徴が希薄化してきているが、以前は「ダンスの花組」と呼ばれていた。1991年、春野が花組に配属になった時のトップは大浦みずき。以下、磯野千尋、安寿ミラ、香寿たつき、紫吹淳と、まさに綺羅星のごとくダンスの名手がそろっていた。群舞であれ、ロケットであれ、ダンスリーダーをはじめとした上級生のダンスを目にして、入団直後から多くのことを学びとったに違いない。

 十年を経て、200112月にトップの匠ひびきが退団を発表、そのサヨナラ公演(=お披露目公演)を匠がケガで降板するという非常事態の中、春野は代役トップとして舞台に立つことになった。しかしそれはあくまで「代演」といわれ、フィナーレで背負う羽根もずいぶん小さかった。そして、遡るが『エリザベート』を含めたラインアップの発表が匠の退団発表直後の20021月で、その時トートは春野と発表されたにもかかわらず、トップ就任の正式発表は待たされた。「事実上」の発表時に「花組のトップは来年6月まで匠ひびきが務めるわけで、現段階で春野が次期トップだというわけにはいかない」と植田紳爾理事長(当時)は話したと伝えられているが、奇妙な現象ではあった。その後、組替え等のサプライズもなく、春野の順当なトップ就任に、多くのファンは安心し、歌で個性を発揮することのできる春野にふさわしいトートでのスタートに、期待もいっそう膨らんだというものだ。

 さて、春野に対しては、多くの場合、歌が得意なトップと言われ続けてきた。退団発表の記者会見でも「ファンからは退団後も歌はぜひ続けてほしいという声があるが」と話を振られているほどだ。実際そうに違いはないのだが、ダンスにも非常に大きな魅力をもっていることが、忘れられがちであるように思う。実はぼくが春野を本公演で初めて注目したのは、愛華みれのサヨナラ公演『ミケランジェロ』と併演のショー『VIVA!』(2001年)で、身体のバネの強さに見入ったのを覚えている。

 トップ就任後、腰を痛めたと伝えられたこともあり、思いきって存分に踊りまくるような振付を避けるようなこともあったと思われ、歌だけの人ではないのにといくぶん残念に思っていたが、サヨナラ公演となったショー『ラブ・シンフォニー』では、久々に彼女のダンスの魅力を堪能した。

 春野のダンスは、けれんみや癖がなく、素直さが持ち味だといってよいだろう。第十場「ラテン・シンフォニー」で彼女は「蝶の男S」、ちょっとやさぐれた感じの風情のある歌を聴かせた後、軽く腰を沈めて、速いがスピードの魅力だけでは語れない、情緒のあるステップを見せてくれた。タメを作ってはいるがくどくはなく、沈めた腰が重心の低い安定感を生み、足先の運びが真円に近いようなきれいな線を描いているのだろうか、とても上品な、高貴な印象を受ける動きである。正統的な動きでありながら、思いを煽り立てるような強い魅力を発しているのは、一つひとつの動きが丁寧でゆったりとしていて、スケールの大きさを感じさせるからだろう。さらに、以前はあまり意識しなかったことだが、歌では豊かな中音域から張りのある高音域を駆使し、奔放に自由自在に魅力を満開させるのに比べて、ダンスでは正調であることをことのほか意識しているように思える。その対照が、視覚に訴える春野の身体を、ひときわ端正なものとして立ち上がらせているのではないか。

 続く「スペイン交響楽」で、旅人である春野は人々と共に踊る。ただ共に踊ることが今必要なのだとでもいうように、踊る。踊ることが楽しいとかうれしいとか、そういうこと以前に、ただ無心にがむしゃらに踊っているように見える。もちろん、腕の返しが美しいとか、ステップのキレがいいというような技術的な面での魅力を数え上げることはできるだろうが、ここでは花組生え抜きのトップとして、ダンスリーダーとして、自分がただ踊ることを後ろの組子たちに見せつけて、「ダンスの花組」であることを伝えようとしているようにも思える。組の伝統などというものは、もはや死語なのかもしれないし、これまで春野がそのようなことを意識していたかどうかは知らないが、この総踊りの場面には、何かこれまで受け取ったことがないようなメッセージが込められていたような気がする。春野はここですべてを出し尽くそうとしている。それを受け取ろうとしている組子たちがいる。それがダンスによって行われようとしていると感じられたのは、やはりダンスというもののもつ身体すべての全体性によるものなのだろう。おそらくこの場面は、千秋楽が近づくにつれて、どんどんどんどん熱さを増していき、はじけんばかりになることだろう。

この場面のラストで、金の帯がバサッと下りてきたとき、一つの世界が終わったような充足感と虚脱感のようなものに見舞われた。それは一つの中心を喪失するということなのだろう。オープニングで「胸によみがえる思い出と共に、新しい旅立ちに愛を歌う」と歌い、フィナーレで「遠く離れても君を思っていることを忘れないで」と歌った春野の、朗々と広がる歌と共に、端正な一挙手一投足に込められた熱い思いを、しっかりと受け止めて、これからも見続けていきたいと思っている。(200712月退団)

残像のようなダンサー〜花純風香の雰囲気

 一九九九年、『ノバ・ボサ・ノバ』(雪組)のビーナスがすごかった。一九九五年初舞台だから、当時まだ五年目だったというのが今から思えば意外なほど、安定感がありながら、大胆で奔放だった。大胆で奔放なだけなら、他の誰かにもできたかもしれないが、それではうっかりすると品位が欠けてしまう。落ち着きといっていいと思うが、中心がしっかりと定まってブレのない激しい動きができていたからこそ、あのすばらしいショーの中で愛と生命を讃美する一つの象徴として躍動することができたのだ。

 しかしながら、花純風香という美しい名前をもったこの娘役は、残念なことに、必ずしも重用されてきたとはいいがたい。2002年度の「宝塚おとめ」に「好きだった役」として先述のビーナスのほかに『心中・恋の大和路』の千代歳を挙げていたように、バレエだけでなく日舞も得意で(名取・花柳栄風香)、それが身体の芯をきっちりと定めるという美点につながっていたのだろう。比較的日本物の多かった雪組では、その美点も大いに生かせたが、2002年に花組に組替え。しかし、ダンスが得意な娘役というなら、花組では鈴懸三由岐が既に大きな存在感をもっていた。鈴懸との学年差が4年、3年下には舞城のどかがいたので、間を埋める役割も期待されていたのかもしれないが、率直にいって、その2人に比べると大劇場公演の中で十分な見せ場が与えられていたようには思えなかった。せっかく日舞が得意なのだから、せめて『あさきゆめみしU』に出演していれば、最後近くになかなかの存在感を見せてくれたのではなかったかと、残念に思っている。

 鈴懸と同時退団になってしまうとは、意外だった。あまり無責任で根拠のない斟酌はすべきでないと思うが、鈴懸が退団すれば多少は出番も多く大きくなっただろうに、鈴懸が同期の春野寿美礼と同時に退団するのとは対照的に、花純は同期の真飛聖のトップ就任を待たずに退団することとなった。その退団公演、『アデュー・マルセイユ』では、市長夫人として凛と張った背筋もみごとに、落ち着きのある声を聞かせてくれた。『ラブ・シンフォニー』では、ほとんどの場面で同時退団の鈴懸と対で使われた。改めて花純を見ていて、もちろん動きの特質にもひかれるところはあるのだが、周囲の世界を撫でつけ抑えるような、姐御のような視線と表情に魅力を感じた。落ち着いてはいるのだが、いくぶん攻撃的とも思えるような視線だ。それはもしかしたら、最後の日々を目に焼き付けておくために広い視界を保つための視線だったのかもしれないが、そうであるよりは、自分を奮い立たせながらも冷静に保たせるような、二つの方向への力をもつ態度であるように思われた。

 そのような態度でダンスに向き合うということは、踊る身体というものを舞台の上で的確に立たせるために、非常に重要なことだったのだろう。具体的にはアラベスクがゆっくりと丁寧で、心がこもっているように見えたというようなことになるのだが、身体の周囲に彼女独自の雰囲気を創り出すことができていたということだ。動きの速さやキレを追究するのではなく、情緒を醸し出すタイプのダンスであるように見えた。人間の身体は流体でできているから、激しい動きによって細部に若干の遅れが生じ、それが名残となって心情に訴えかけることになる。身体だけでなく、ドレスの裾さばきにも同じことが起きる。おそらくはちょっとした加減なのだろうが、ただの布が意志を持っているかのようにきれいな弧を描いてふわりと身体を彩るのは、見ていて気持ちがいいし、残念なことに巧拙の違いが客席からはっきりわかってしまうものだ。ゆっくりと時間をかけて描く弧は、残像になって、しばし時間を止めるような効果がある。そのような残る姿、残る思いを痛切に見せることのできるダンサーであった。

 最近の花組は、なんだか娘役がずいぶん充実していて、花純が退団しても舞城、花野じゅりあ、とダンスを得意とする娘役には事欠かない。花純は、花組では数年在籍したに過ぎなかったかもしれないが、その後ろ姿を見て身体の動きの味わいというようなものを体得した者も多かったのではなかっただろうか。どちらかといえば派手に主張するタイプのダンスではなかっただけに、宝塚の娘役としては正統的で、貴重な存在だったといえるだろう。多くの娘役には、そういうダンスもまた重要であるということを、受け継いでいってほしい。(2007年退団)

 
「アデュー・マルセイユ/ラブ・シンフォニー」
 

 サヴォン・ド・マルセイユ(マルセイユ石鹸)とは、うまいこと考えたものだ。ジェラール(春野寿美礼)とシモン(真飛聖)の少年時代の思い出と共に語られるその工場は、かつてマリアンヌ(桜乃彩音)の父が経営していた。マリアンヌとジェラールは、経営者のお嬢様とその工場で働く女性工員の息子という微妙な関係にあるのだが、二人ともあまりそのことに屈託を見せない。そんな七面倒くさいことは、石鹸の泡がさっぱり流してくれるのかもしれない。実際、キャトル・レーヴではマルセイユ石鹸を売っていて、けっこう多くのファンが買い求めていたようなのだ。石鹸の香りと共に、ファンは春野の甘い思い出に浸ることになる。…

 冗談はさておき、この設定は、うまい具合に劇の舞台がマルセイユでなければならない理由ともなった。筋のひねりが利いていて、それなりに理屈も通り、何となくいい香りが漂い清潔感がある。暗い過去を持ちながらも本当は誇りとすべき無実であって、密輸の前科のあるギャングを装いながら実は国際刑事機構の捜査官であるというジェラールという存在の清潔感、そして多くのファンは春野の王子様のようなノーブルな雰囲気に重ねることもできただろう。

 ただ、ちょっと清潔すぎたか、ジェラールとマリアンヌの関係は淡すぎる。その関係の微妙さは、いよいよ別れの場面でジェラールがマリアンヌを押し出すように行かせる時に、さてどこに触れるのかと見ていたら、ちょうど腰骨のあたりだったことにも現れたように思う。実に中途半端で何ともいえないスキンシップである。口づけは交わしたが、まだ兄妹のような関係だったのだろうか。絶妙だと思った。

 桜乃は、世間知らずで頭でっかちな愛らしいお嬢様役をうまくこなした。市会議員で家庭教師を務めてくれているモーリス(壮一帆)の下心の見え透いた誘いかけをためらった末に断ったり、女性の参政権を主張する一方でやはり男の手助けがなくては女は自立できないのかと苦悩したりするあたりで、もう少し陰翳が見えれば、深みも出て大人の女を演じられるようになるだろう。

 表の顔は清潔そうな街の浄化委員だが、裏では密輸に関わりマフィアに手を貸す黒幕だったというモーリス(壮)だが、役柄が『DAYTIME HUSTLER』のヘイワードとずいぶん似通っていたのには、がっかり。表の顔でマリアンヌに接する時にも人間的な魅力に欠け、黒幕としても中心人物ではない、損な役回りだった。その秘書か助手のロベールを、扇めぐみが案外かわいらしくアクセントをつけて好演。未涼亜希がマフィアの富豪ジオラモ、やや小柄ではったりがきつそうで容赦がない、本当に悪い奴、という感じをうまく出せていたようだ。

 アルテミス婦人同盟の面々は、花組の若手娘役のホープを集めた形で見ごたえがある。中でも眼鏡をかけてひときわ堅物らしさを出した花野じゅりあが傑作だった。回想の石鹸工場の場面は長くはなかったが、梨花ますみ、絵莉千晶らのきっちりとした演技で時代の雰囲気を感じさせた。病弱のイヴェット(絵莉)が倒れ、そこから母を思うシモン、シモンのために罪をかぶるジェラール、と物語の起点になっていく説得力と味わいがあった。

 愛音羽麗が女役に回って、シモンの愛人ジャンヌ。大胆で気っぷがよくて人情肌のいい女を快演。『舞姫』の好演のせいもあってか、余裕と大らかさが出てきたように思う。次は本来の男役に戻った、大きな役で魅力を全開してほしい。

 これで退団となる鈴懸三由岐がマフィア側のクラウディアで、これもどこかで見たような役どころ。確かにはまり役ではあるのだろうが、最後ぐらい人のいい役でもよかったようにも思う。石鹸工場で一踊りしてくれてもよかったのに。嶺輝あやとは取調官でしっかりと場面を作った。

 次期トップの真飛は、夜の帝王としてのクールで厳しい表情、ジェラールの旧友としての人なつっこさ、酔っぱらい、ジャンヌの尻に敷かれたり石鹸の彫刻を見せたりするコミカルな表情、ジェラールを疑い決別を告げようとする苦悶の表情、と様々な魅力を見せてくれた。ショー『ラブ・シンフォニー』では娘役を従えての花盗人など、舞台の中心となる大きさを存分に見せてくれた。

 ショーで他に目立ったのは、真野すがたの動きのキレ、朝夏まなとのスケールの大きな動き、花野の美しさ、ロケットガールなど野々すみ花の華やかさ、未涼の歌の魅力、絵莉のカゲソロの膨らみと厚みのある声。春野が歌いまくり踊りまくる姿からは、ある種のがむしゃらさを感じさせられ、トート(『エリザベート』)にもエリック(『ファントム』)にも、ぼくは春野の中にこんながむしゃらできかん気な姿を見てきたな、と微笑ましくうれしく思えた。(200710月)

 
 
はかなげなのにドラマティックな魅力〜『MIND TRAVELLER』の華城季帆と突然の退団

 華城季帆の退団は本当に残念だ。しかも集合日付けということで、ファンに別れを告げることなく退団というわけで、控えめに言っても、あまり尋常なことではない。同組の若手娘役のホープ、澪乃せいらと同時ということもあって、巷では様々な憶測も乱れ飛んでいるようだ。

 それにしても『MIND TRAVELLER』のパメラはよかった。彼女の歌のすごいのは、歌っている間にどんどん高まっていくのが遠目からも耳からも手に取るようにわかることだ。声そのものは、珠か鈴でも転がしているように軽やかなのだが、それをドラマティックで魅力的なものとして厚みを与える表現力がある。透明感のある歌声なのに、様々な色彩や濃淡を見せてくれる。ただ声が美しいというのではない。一つひとつの言葉が、その意味を一つひとつの音譜に乗って確認されるようにメロディに乗り、その美しい身体の内奥すべてからにじみ出てくるようなすごさがある。

 特別室に入れられてしまったマックスを訪ねたパメラ、自尊心を失わないようにとマックスを勇気づける。しかしその言葉は、本当は自分自身に言い聞かせるようなものだったのかもしれない。それに続くパメラの歌は、呟くように揺れのある声で、朗々と歌うのではなかった。そのことによって、マックスを勇気づけているパメラこそが、本当は淋しくて悲しくて勇気づけてほしくてたまらないということがわかるのだ。パメラの瞳はキラキラとライトに輝いて、「無垢な魂はよみがえって再び歩み出せる…」「あなたの魂が立ち直るのと一緒に、歩んで行ける」と希望につながっていく言葉と共に、歌がどんどん昂揚して、絶唱となっていく。ほんの二、三分の短い歌だったかもしれないが、言葉で綴られた歌詞を何倍もに増幅し、言葉になっていない感情や、感情として意識されていない心の深いところまで表現しえたのは、楽譜にも決して記されることのない、声の揺れの魅力であった。本当にすごい歌が聴けたと、感謝している。

 どんどんマイペースで進んでいくマックス(真飛聖)に、おろおろしながら急速に引かれていくのも、よくわかったし、何よりそのおろおろした感じが本当にリアルで素敵だった。可笑しかったのは、夜の街に一人で出てしまって朝まで帰ってこなかったマックスを、その病室で待っているパメラのいびき。大胆な演出で、いささか微妙な感じもしたのではあるが、それを率直な愛らしさに見せるだけのナイーブな魅力と、正直に言うが、放り出すような脚線の美しさがあったというわけだ。

 パメラは、その経歴や専門分野から、時折驚くような深い含蓄のある言葉を口にする。マックスに対して「生きてる人間として大切だから、言ってるのよ」「あなたは悪いことのできる人じゃない」と、あくまで相手を信じ、共感していることを伝える言葉である。

 医師リチャード(未涼亜希)のいささか変わったプロポーズを「ついていくことはできない」と静かに断るのも、短い時間の間によくよく考えたことをわからせることのできる表情をしていた。何か選択を迫られれば、必ず堅実なほうを選び取るような、そういう女性であるようにも思われた。

 パメラが市民病院へ移るというのも、今から思えば、退団を意識してのことだったのか…いや、そこまでの意識はなかっただろうし、暗合ともいえまい。ただ、そういう道を選ぶような女性であったという人物造形は、華城にふさわしいものであるように思われた。

 ジュディ(野々すみ花)が仲間に促されて去るまで、声をかけられずにいる時の表情、ジュディが「あぁ」というように去ったときのちょっとあわてたような表情も、すばらしい。マックスが「一人じゃできない」と言って人生のパートナーであってほしいと言外に匂わせるのに対して、「誰、それ?」とためらいがちに尋ねる時の表情は、演技とは思えないような迫真のものだった。自分に自信がないわけでもないだろうが、人生に対して臆病で、不安で、選ばれることに自信がなく過ごしてきたのかなと、そういう歩みの長さも思わせるような表情、声音だった。

 そして、泣く。これまでの緊張がすべて解けたような、ほどくことがやっとできたことで、泣く。それを目にしてぼくたちは、あぁよかったな、と安堵する。一歩間違えれば、少しタイミングがずれればどうなるかわからなかったような事態の連続だったが、一貫していたのはパメラがマックスを信じ、勇気づける心だったな、それがようやく報われたな、と本当に共に安堵する。

 思い返せば、『マラケシュ』のファティマでも、どこか淋しげなたたずまいが魅力的だった。『ファントム』新人公演のクリスティーヌでは様々な場面でその歌の力が劇の流れを確かなものにした。その歌を聴いていれば、そこに愛があり、思いがあふれているということを感じることができた。

 少しはかなげな空気をまとっているのが気になって、もう少し華やかさが出ればと思い、書いたこともあったが、しかしその何ともいえないはかなげな気配が、大きな魅力だったことも間違いない。そう思っているとダンスの場面では驚くような伸びやかな動きを見せ、改めて腕や脚が美しく伸びてダンスのどのポイントでも素晴らしいスタイルとバランスを見せてくれることにも驚かされたりした。これからという時の突然の退団は本当に残念だが、これが門出であると信じて、見守っていく他はない。(200612月、退団)

エリックもキャリエールも、比べたくない(花組『ファントム』)

 中途半端に時をおいて同じ作品を続演するというのは、難しいものだろうと思う。しかも、前回宙組公演では、キャリエール(樹里咲穂)とエリック(和央ようか)のやり取りがすさまじいまでの緊張感と情愛にあふれ、芝居の流れを止めるほどの万雷の拍手で話題となるなど、わずか二年しか経っていないのに半ば伝説と化している上に、前回の和央と花總まり(クリスティーヌ)のトップコンビの退団公演『Never Say Good By』が十日あまりながら宝塚、東京で重なるということもあり、いやがうえにも前回公演を思い出すということになってしまう。

 今回エリックを演じた春野寿美礼は、独特の飄逸とした芸風がファントムに合うかどうか心配されたが、その味わいとやんちゃな息子らしさをうまくミックスして、複雑で愛らしいエリック像を打ち立てた。どこかぶっきらぼうでクールに見えるが、それはそういう仮面をかぶっているからで、そのように精神的にも仮面をかぶらざるを得ないという深さがこのステージ全体の質を決定したといえるだろう。仮面を取ってほしいとクリスティーヌ(桜乃彩音)に言われて、「お願いだから、やめてくれ」というところでは、幼さややりきれなさが出ていて、これこそ的確なエリック像ではないかと思われた。歌については今さらいうまでもないが、難曲でも音程に揺れがないことはもちろん、たとえば「You are Music」の低音から高音へのグリッサンドの溜めといいタイミングといい、センスがよくそれに技術が伴っているものだから文句の付けようがない。クリスティーヌをさらって逃げるところ、銀橋で追っ手を見やって走ろうとするところでワンテンポ余裕をもたせるところなど、もしかしたら理解できないと憤ったり鼻についたりする人もいるかもしれないが、ぼくはこの春野の引き具合がとても好きだ。顔を見たクリスティーヌが悲鳴を上げて去って行った後の驚くほど柔らかくやさしい歌も、クリスティーヌの愛という無邪気さの残酷さを反照させるにはこれ以上ない歌いぶりだったといえるだろう。

 花總と比べられることになってしまったのが、本公演お披露目の桜乃だから、気の毒といえば気の毒。それでも観客は容赦してくれない。オペラ座通りで楽譜を手に歌っている第一場、この歌でパリジャン諸氏やシャンドン伯爵(真飛聖)が思わず歩みを止めてしまうというのは無理があった。まだこれはエリックのレッスンを受ける前だからといっても、片鱗が見られないのは残念。高音を出そうとするときに顔の表情がなくなってしまうのがよくない。ビストロのコンテストの場面で最初は弱々しく、しかしエリックの加勢を得て朗々と堂々と歌う場面、過剰なほどのエコーが効かされたのは、逆効果だったのではないかと思われた。演技に関しても、キャリエール(彩吹真央)が「私が、彼の父親だからだ」と告白した時にリアクションがないところ、エリックが仮面をはずして素顔を見たときのリアクションが薄く中途半端なところ、決定的なところで物足りなさが残った。東京公演では随分よくなっていたのではないかと思いたい。

 逆に、オペラ座団員でシャンドン伯爵のこれまでのお気に入りであったソレリを演じ、新人公演でクリスティーヌ役となった華城季帆が、その珠を転がすような可憐な歌声で注目されることになってしまった。ショーでもロケットのリーダーを務めていたが、生き生きしていい。ダンスの場面でも長い腕が上品で、目を引く存在である。こうやって徐々に華やかさを帯びてくるのではないかと期待しよう。

 舶来ミュージカルではどうしてもメインとなるキャストが少なくて、割を食った形で街の男やオペラ座団員を演じた愛音羽麗(セルジョ、キャリエールの青年時代)、未涼亜希(リシャール)、桐生園加(ラシュナル)だが、随所で楽しい小芝居を演じてくれて、面白かった。もちろんソロのダンスや歌では満を持して遺憾なく実力を発揮して、大きな存在感を示せたのはよかった。次回公演や、組替え後の活躍を期待したい。紙幅がないが、もちろん真飛は貫禄と上品さ、低音の歌の魅力、すばらしかった。

 大ぜい役の中で少しでも目立ったシーンをもらったのを、ぬかりなくアピールした一人として、華耀きらりを挙げたい。愛らしく、いい声をしている。組のコーラスの力は余すところなく発揮され、特にビストロでクリスティーヌの名唱の後の全員の合唱は力強く、中でも絵莉千晶の高音の響きが美しく、すばらしいアンサンブルとなった。エリックの少年時代を演じた野々すみ花の歌や悲鳴は涙を誘った。

 宙組に続いて評判のよかった出雲綾のカルロッタだが、歌のうまさや表現力はもちろんすばらしいが、一人で芝居をしているように見えて浮いているように思え、やや不満が残った。

 さて、最後に彩吹のキャリエールだが、ぼくはすばらしかったと思う。他でもふれたが、ぼくたちはこういう機会があると必ず前回公演の誰それとの比較において物語ろうとしてしまう。しかし、虚心に初見の気分で観ることも大切なのではないだろうか。この彩吹について、少なくとも大劇場公演の後半においては、文句のない充実ぶりだったと思う。春野との声のコントラストもちょうどよく、いいアンサンブルだった。演技でも、「奴を生け捕りにしろ」という声を聞いたときの反応の強さといい、回想シーンでのセリフに込める情感の盛り上がりといい、役への没入の深さが想像できる味わいのあるものだった。銀橋でのエリックとのやり取りも、春野のクールでやんちゃなエリック像に懸命に沿わせ、苦心して格闘した末に包容力を獲得したのだろう。その結果、父としての純粋な愛と包容力が客席にあふれ出てくるような名場面を創りえた。三年も上級の春野の父親役ということで、大変な苦労だったろうが、組替えを控えてすばらしいはなむけとなったといっていいだろう。

 
「マラケシュ」

 ちょうど見終わって少しして、中山可穂の『マラケシュ心中』(講談社文庫)を読んで、「あなたはどれくらいモロッコにいたの?」「さあ……うまく思い出せないんだ……とても長いあいだだよ……とてもね」という主人公と旅人の会話を見つけたり、「強烈な異文化に触れて何かが少しずつほどけていくような感覚」という一節を見つけて、納得していたりした。なるほど、「マラケシュ・紅の墓標」といういささか難解なドラマは、そういう強烈さを前提として成立していたわけだ。

 この重層的なドラマを読み解く鍵を握っているのは、実はオリガ(ふづき美世)という女性の不可解さではないか。測量技師の夫(彩吹真央)が行方不明になったからといって、マラケシュまで行こうというのは、周りの皆が言うように、普通なら愛する夫の身を案じてのことに違いないのに、彼女はそんなシンプルな感情に身を委ねてしまえない。彼女は自分の感情に理由を見つけなければ納得できず、次には逆にそのこじつけた理由によって行動を決定することになってしまう。そもそもマラケシュに着いた彼女には、夫が亡くなったかもしれないということによる不安や淋しさよりも、それによる宙ぶらりんな状況、さらに言えば今の状況が変わるのかもしれないという、自分でも表面化することを許しにくい淡い期待感や、ロンドンや実母や夫の家族から離れたという解放感のほうがまさっているように見えてしまうのだから、まあ世間的に言えば困った若奥様だ。

 オリガがいよいよリュドヴィーク(春野寿美礼)との恋に落ちる下り、第十場「悔恨のデュエット」がまさしくそうである。場面の作り方も、オリガが言ってることも、これに先立つパリの回想シーンに比べて実に理屈っぽくまだるっこしい。恋に恋するどころか、自分の発した言葉が自分に戻り、自家中毒に陥って無理矢理恋を始めているようである。オリガをやんわりとたしなめ拒みながらも結局は折れて抱き止めてしまうリュドヴィークにも、やや投げやりなところがある。投げやりというのは違うかもしれない。彼には、「自分の人生」などどうでもいい、という感覚があって、だからイヴェット(遠野あすか)の身代わりになって、ここマラケシュまで流れ着いてしまったのだ。そういうどうでもよさがなければ、こんな街には流れてこない。誰も。

 さて、ドラマを仔細に読み解くことは他の人に任せて、では、そのような人物を春野やふづきは十分に演じきれていただろうか。残念ながら、この二人がもっと的確な表情を見せ、背景を明確にした演技をしていれば、もっと筋のつかみやすい、わかりやすいドラマとして成立しただろう。一言でいえば、二人とも陰影に欠けた。最も物足りなかったのは、第十四場「夜明け」で傷ついたリュドヴィークとオリガがすれ違うところ。リュドヴィークには、ただ負傷したからという理由だけで離れるのではないという複雑さを出してほしかったし、オリガには錯乱が見たかったし、リュドヴィークが置いていった薔薇を見つけた時には、もっとドラマティックな別の反応があってよかった。二人が間近にいながら夜の闇のせいか出会うことなく離れていく、この不思議なおとぎ話のような設定を共に哀しむに至らなかったのは、このドラマにとって残念だった。

 全体に見ると、ストーリー的には多くの謎を残しながらも、一人一人の役者にいとおしいような見せ場をきっちりと与えていたことは評価できる。鈴懸三由岐のダンサーとしての魅力、存在感を存分に発揮させた蛇は、セリフのない狂言回し的存在として、また砂漠の精霊が時折マラケシュの街に出没して人々の運命を翻弄しているかのようで、ひじょうに印象的だった。つまりダンスというものにはそういう力があり、鈴懸がそういうダンスを見せてくれたということだ。同様の存在として、イズメル(愛音羽麗)とアマン(桜一花)というベドウィンのきょうだいもよかった。主に愛音は歌の鮮やかさで、桜は動きのタイミングのよさとしなやかさが印象に残ったが、「あの人は別よ」とリュドヴィークにシンパシー以上の感情をほのめかせるアマンの存在は、リュドヴィークをうまく照射した。レオン(樹里咲穂)の恋人、ファティマの華城季帆も、樹里とのダンスの的確さ、さびしげなたたずまいがよかった。遠野のイヴェットは、すばらしかった。過去のプライド、リュドヴィークとの「傷」の間でずたずたに引き裂かれてしまった「可哀想な人」。その美しさと醜さを深淵まで見せた。アリの高翔みず希が冷酷で夢のない男を絶妙に演じ、ハサン(嶺輝あやと)、イヴン(桐生園加)とのダンスも美しかった。シュザンヌの翔つかさ、ややとうのたった女性の崖っぷちのかわいらしさを、実に的確に演じた。こういう人がいなくなるのは、本当に残念だ。


野風の笛/レビュー誕生

 「野風の笛」で最も心配されたのは、春野寿美礼という組のトップがすっかり確立しているにもかかわらず、専科の中でも別格扱いとされている轟悠を迎えて、舞台のバランスはどうなるのだろうということだった。轟は専科に移動して二年、組単位の本公演に出演するのは初めてということで、入れ込みすぎてはしまわないか、また花組メンバーとの相性はどうか、専科の出演も多いし瀬奈じゅん彩吹真央の見せ場は少なくなっているのかなあ、観客動員はどうなるのだろうなど、やや下世話な興味も含め、さまざまな心配があった。

 その上、原作はあるにせよ脚本が谷正純ということで、轟か春野かどちらか死ぬんだろうかとか、何人死ぬんだろうとか、また親子や夫婦の情愛を引き裂くようなきつい選択があるのだろうかとか、他人のために犠牲になるとか、いろいろあるのかなと思っていたら・・・・・・だいたいあった。

 死んだのは、春野(花井主水正)のほうだが、その最期の第十六場「身を捨てて」「落花の譜」はこの劇のクライマックスとして稀に見るほどの緊迫した盛り上がりをみせた。この場面の春野は本当にすばらしく、この場面をもらえただけでも、轟の出演に耐えるだけのことはあったなとまで思わせた。

 ところで「陰腹」という作法(?)は初めて知ったが、手近な国語辞典を引くと「人形浄瑠璃や歌舞伎で、観客に見えない所で切腹し、それを隠して舞台に現われ、苦痛をこらえて述懐する演技や場面」とある。そうだよな、実際そんなことできるわけないよな、と思っていたが、原作がある脚本だしなあとも思っていたところ、「歌劇」七月号の天野道映の公演評を見たら、この場面は演出家の創作であるとのこと。つくづく谷という演出家は死にぎわに「美学」を求める男なのだなとあきれたというか、感動したというか。春野の見せ場を作るために創作した場面というよりは、松平忠輝(轟)と主水正との絆を強く描くために、その間に死を介在させようとし、その死のプロセスを極力長くするために陰腹という芝居の手法を取り入れたわけだろう。

 問題は、この主水正の陰腹によって、この芝居がよいものになったかどうかであるが、もちろん春野の名演を見れたという意味では、すばらしかった。しかし、主水正が身を捨てて秀忠(夏美よう)に訴えかけたにもかかわらず、忠輝はそれに対して悲しみに暮れるばかり、これからは世のため人のために生きようというのではなく(そういう環境に置かれていなかったことは確かだろうが)、「鬼っ子」として心のままに生きていこうというのでは、主水正は浮かばれない。

 五郎八姫(ふづき美世)を離縁するくだりも、理屈では何とか理解できるものの、情愛において耐え難いところを心で泣いて切るのだぞというような哀感が漂わない。結果的に、演出家が加えたという忠輝・主水正の男同士の絆も、二人が五郎八姫に寄せる思いも、共に空転してしまって、忠輝を自分勝手な男に見せるだけに終わってしまったように思われる。

 それにしても、この天野の公演評、谷のデビュー作にさかのぼった上で「わずかな例外を除いて書き続けてきた死(しばしば大量死)はやはり繰り返され、(中略)滅びゆく者への共感が演出家の作風だとしても、度重なると食傷する」というのは、ずいぶん踏み込んだ言及だ。同感である。

 轟を含め四人も専科から出演したこともあり、プログラムの「メインキャスト」欄に記載されている花組メンバーはわずか八人。準トップ以下の男役は瀬奈、彩吹、蘭寿とむだけというありさまである。「エリザベート」では愛音羽麗まで記載されていたのだから、若手は意気沮喪しかねないのではないか。ではこの間に蘭寿や愛音がバウ公演で力を蓄えたりできていたかというと、例の春うんぬんというワークショップにしか恵まれていない。これらは業績としても「〇・五本」扱いだろう。

 娘役にしても、ふづき美世は今回トップ就任公演であったにもかかわらず(ドラマシティでの『不滅の棘』はあったが)、男役トップときっちりとした関係性を作ることができず、見せどころのない公演となってしまったように思う。最近冷遇されているように思える遠野あすかにしても同様である。せいぜい『シンデレラ』での健闘を祈りたい。

 「レビュー誕生」については、瀬奈じゅんの健闘が光ったし、舞城のどかが美しく、「スワン・レイク」はアドヴェンチャーズ・イン・モーション・ピクチャーみたいで面白かった。小林公平原案ということで覚悟しただけのこともあったのか、予想よりは悪くなかった。


ダイアモンド・アイズ 宝塚花組 シアター・ドラマシティ 418

入場前に、公演時間が1時間半と知って、驚く。そりゃまあ考えてみれば、トップスター匠ひびきのサヨナラ・リサイタルだったのが、匠の「体調不良」で当の匠抜きの公演となってしまったのだから、匠がソロを取ったりセンターに立っていたはずのシーンのほとんどが抜かれてしまったとして、それでも何とか90分は作り上げたというのが本当のところで、実際にも、休憩なしで一気にやってしまう他はなかったのだろう。

この何とも居心地の悪い公演を、だからこそ、それでもあえて観に来た者は、何としても精一杯盛り上げようという気持ちであったに違いない。主催者が払い戻しを受け付けたこともあって、空席の目立つ場内ではあったが、拍手が常識的に考えられるよりも23割長いように感じたのは、そういう先入観だけによるものではあるまい。また、最後にはスタンディング・オベーションで出演者の労をねぎらったのも、実際にこの公演が(予想以上に)素晴らしかったことはもちろん、匠の休演決定後の出演者たちにのしかかった重圧がどれだけのものであったかを、皆が容易に推察できたからだと言っていい。

しかしそんな思いやりめいた感傷を吹き飛ばすように、「バイ・バイ・ブラックバード」をはじめとする「フォッシー」のパートは、きちんとしたエンタテインメントに仕上がっていた。特に楓沙樹のダンディな姿が鮮烈だ。出演者12人それぞれの表情が、人に見せるためのものに楽しくできあがっていたのがいい。匠がダンスを売りとしているだけに、楓を筆頭に高翔みづき鈴懸三由岐舞風りらなど、ダンスの得意なメンバーが中心となって、ひじょうにレベルの高いものになっていた。

一方、歌は娘役の歌花由美絵莉千晶といったエンカレッジ・コンサートに出演したメンバーを主としていた。歌花が「ホフマンの舟唄」、絵莉が「ウィーン、わが街」と、エンカレッジで歌った歌を幕前で披露したのは、前述のようなことを踏まえた窮余の策だったかもしれないが、若手で七星きらの歌がよかったのには驚いた。

他に若手では、舞城のどかの美しさが目を引いた。桐生園加橘梨矢がフラメンコのシーンでいい表情をしていたのが印象に残る。メンバーが12人しかいなかったのだから、あえて個々に名前をあげる必要もないのだが、なんだか人数が多く見えたところもあったぐらい、充実していた。

ぼくが観たのは初日だったので、なおのことだったろうが、一例をあげれば、オープニングで楓が立ち位置を間違えたのか、ライトが当たってフォッシーのポーズのまま23歩後じさりした。おそらくは楓にとっても空前のことだったろうが、彼女の緊張と入れ込みの強さをうかがわせて、痛々しくさえ思えてしまった。

楓は、ニューヨーク1のホストクラブ「メイプルズ・クラブ」というシーンで、客席から出てきたが、おそらくはこんなに空席の赤いシートをバックに歌うのは始めてだっただろうと、気の毒に思った。それでももちろん笑顔が素敵だったが、それをさらに救ったのは、楓が客席にいた、赤ちゃんを抱いた星野瞳の手のひらにキスしたことだろう。

出演者の中で最上級生の貴月あゆむの表情も、疲れからか緊張からか硬くこわばっていたようだった。カーテンコールのアカペラの「上を向いて歩こう」も、ちょっとよれよれだったが、客席からのスタンディング・オベーションがすべてを救った。

この東京公演で退団するのは楓や貴月らも同じことなのだから、自分の感傷に浸ってもよい公演であるはずなのに、匠の不在を中心に時間が流れていく。今ここに目に見えているものではなく、不在のもののために行なわれているという、なんとも不思議な公演である。「チャーリーズ・メドレー」と題されたメドレーは、本来なら匠が歌うはずだった曲を他の者が歌い継いでいく。匠の花組一筋の十数年を他の者が回想するというのは、構図としては、不謹慎な言い方だが、追悼公演のようだった。貴月の姿や横顔が何かの拍子で匠に見えたりしたのも、不思議だった。

この公演がこのようであったことをもって、匠に「よかったね」などとは言えないが、少なくともこの出演者12人には、二度とない貴重な体験になったことだろう。後日ある出演者から「お客様の拍手に助けられました」と便りが来たが、それももちろんそうだろうが、ぼくもまた、このような状況で舞台をつとめ上げた12人に、心底感謝している。


最後の最後はチャーリー、……

いま匠ひびきにサヨナラを言おうとするということには、あまりに多くの余計な感情がつきまとうので、本当の意味でこれまでの十数年間をきっちりと振り返り、評価した上で別れを惜しむということは、誰にもできないのではないかと思ってしまう。それにぼくは「チャンピオン!」を見ていないし、「白い朝」は見たけど、どちらかというと、さぶの伊織直加のほうが印象に残ってしまっている。安寿ミラ退団後の花組については、若手にしか興味を持てなかったような怠惰な観客であった。

それでも、お披露目兼サヨナラ公演となったショー「Cocktail」は、よかった。素晴らしかった。感動した。TCAにも出場しないと発表されたので、結果的に関西で匠ひびきを見るのは、このショーが最後となったわけだから、このショーで匠の印象を締めくくることができたことは、彼女にとってもぼくたちにとっても、よかった。

といっても、この公演の宝塚での最後の数日間を見たファンにとっては、痛々しさばかりが目に焼きついたかもしれない。そういう意味でも、公演の中盤までしか見ていないぼくは、幸せだったといえるのかもしれない。まだ東京公演ではどの場面に出演できるか発表されていないが、動きの激しい場面には出るまい。本人も悔しいだろうが、ファンには痛恨である。

「ミケランジェロ」のジュリアーノでの匠のたたずまいは、やるせないほどに微妙なものだった。次期トップの役としての重みや華やかさに欠けるということ以上に、不思議な暗合があったように思えてならない。ジュリアーノは一流の画家をめざしていたのだが、同時代のレオナルドやラファエロに比べると非力である。それを自分でもよくわかっているので、お手軽な肖像画家として口を糊している。そんな自分を自分で軽んじるかのように、いつも軽口を叩いている。肺病を持っていて時々発作に襲われるが、人前では平気なふりをしている。喧騒の中で、人知れず最期を迎えるのも哀しい。カクッ、カクッ、と膝が折れてしまったように倒れるその最期の姿は、やはり次期トップの予行公演としては、ちょっと不当であるように思えた。

でも、このジュリアーノの匠については、けっこう彼女のいい一面が存分に出ていたとも言えるのだ。まず、彼女の不器用だけど一筋に懸命に進んでいくというイメージを、うまく描けていた。そして、それが少しユーモラスに演じられることで、演技の幅が広がりもした。ただし、このユーモアをあえて説明すれば、陰性のユーモアだったといえる。つまり、敗残者のユーモアで、さらにいえばペーソスに近いか。それはそれで味わいとしては豊かなものといえなくもなかったが、やはり再び同じことを言うが、次期トップの役としては、穏当ではなかったように思えてならない。

一作のみのトップであると発表された後のドラマシティ公演「カナリア」は、正塚晴彦の手になる、いわばドタバタ劇だ。前回公演評を書いたので重複は避けるが、今になって考えてみれば、これもまったくカッコイイ役ではなかったことで、匠の役柄というのは一貫している。宝塚の演出家たちが、なぜか匠には超カッコイイ二枚目をさせようとは思わなかったのが、面白い。もちろん匠は、歌もセリフ回しも不器用そうにプツプツといったタイプだから、紫吹淳のような口ごもり系ともまた違って、どうしてもシャープなダンディスムを見せにくいような印象を与えてしまっていたのかもしれない。

同じ正塚が演出のみに回った、柴田侑宏(「白い朝」もこの人)の「琥珀色の雨にぬれて」のクロードも、結果的には決してカッコイイ役ではなかった。しかし改めて思えば、正塚にとっていわゆるカッコイイというのは、あまり好ましいことではない。そういう意味で、正塚は最後に匠をうまく料理してくれたといえるだろう。匠の見かけの不器用さを、うまく逆手にとって、匠を「ちょっと不格好かもしれないけど、すごく味のあるヤツ」に仕立てて送り出すことに成功した。

Cocktail」の匠は、本当によかった。公演評でも少し書いたが、とてもよく踊っていたし、何より時折見せるウィンクや柔らかい表情がひじょうに印象的で、トップらしさの片鱗を見せた。ダンスがよかったのは言うまでもない。これまでぼくはあまり積極的に評価しようとしなかったが、彼女のダンスの魅力は直線性にある。これはダンスのタイプであって、あとはそれを観るぼくの好悪と言う他はなかったのかもしれない。スッと垂直に上がる脚、クルクルと速い回転、それら匠のこれまでの足跡からたどると、本当に十二分に踊りきった、素晴らしい公演だった。

公演評でも書いたが、このショーの素晴らしいところは、本格的だったことだ。「Asian Sunrise」みたいに頭に羽だかなんだかをつけて中国の民族舞踊みたいなのをさせられることもなかったし、妙な趣向を凝らして大階段で降りた後にタップダンスのシーンをつけられるということもなかった。たった一公演だけだったとはいえ、そしてどうも東京公演ではわずか一週間余りのこととはいえ、宝塚のトップスターとして恥じることのないサヨナラ公演を、正塚と藤井がきっちりと作り上げてくれたことを、ぼくも匠のために感謝したいと思うのだ。

匠の魅力は、なかなかわかりくいと書いたことがある。彼女自身、二番手、三番手の時代には、その魅力をまっすぐに、誰にも遠慮せずに出すことを、あまりしなかったのではなかったか。そういう人のよさに隠れて、彼女の魅力が見えなかった不明を恥じるばかりだ。せめてもう一公演、彼女が誰にも気がねなく、チャーリーズ・スマイルを三六〇度振りまく機会が見たかった。今この状態で「ありがとう」とか「ごくろうさま」というような当たり前の言葉をかける気になるのは難しいが、チャーリーの本当の魅力を最後まで見届けることのできなかった無念を、ファンとしてずっと抱いていこうと思う。今は東京公演の最後の一週間余を、彼女が彼女なりに達成感をもって終えることができるよう、祈るばかりだ。


「琥珀色の雨にぬれて」「Cocktail」

匠ひびき、絵麻緒ゆうと、二人のトップのお披露目公演が続けてサヨナラ公演であるという、なんとも複雑な居心地の悪さから公演評を始めなければいけないというのは、どう考えても異常な事態である。そういう影響だと思ってはいけないのだろうが、「琥珀色の雨にぬれて」は、次期トップに事実上決定している春野寿美礼のルイが低調だったこともあって、全体に今ひとつ集中力を欠き、クロード(匠ひびき)とシャロン(大鳥れい)が運命的な出会いだったというのが、ただクロードの能天気な夢想であったように見えてしまったのが、つらかった。あくまでもイキイキとしているシャロンと、どんどん焦忰していくクロードの対照は、わかりやすくみごとだったといえよう。

ショーの「Cocktail」では、まず銀橋のカラフルな照明が美しく、華やかな感じを与えてくれたのがいい。そういうオープニングから「ムーラン・ルージュ」の場面に移り、娘役たちのキレのあるダンスと匠の勢いのある華やかな動きで、まずこのショーの成功はほぼ間違いなくなったようだった。

ただ、続くバスケット・ボールの試合のシーンは、ちょっと間伸びした。レフェリーの楓沙樹は、とてもカッコよかったのだが、設定自体に無理があったのか、春野蘭寿とむはじめ、男役のスピードにもパワーにも物足りなさを感じた。娘役では、遠野あすかの歌がキンキンしているのが気になったが、彩風蘭のダンスを初めていいなと思って見ることができたのが収穫か。

続く修道院の場面で強く印象に残ったのは、瀬奈じゅん彩吹真央真丘奈央の歌だった。彩吹はこの後で歌ったサザン・オールスターズの名曲「Oh! クラウディア」も絶品で、匠と大鳥のシーンを完璧に創り上げていたといえよう。彼女の歌、声があったからこそ、二人もこのように濃密な動きをとれたのだろうなとさえ思われた。

「クンバンチェロ」の鳥Sは眉月凰だが、どうも肉付きがよすぎるせいか、あまりシャープでセクシーには見えないのが難。しかし、楓を芯にしたダンス、蘭寿の歌、貴柳みどりのダンスが素晴らしく、テンポのいい場面に仕上がった。また、大鳥の乗りのいい酔っぱらいぶりがなんともかわいらしく、「カナリア」に続いて壊れた大鳥を見られたのが楽しい。

タブーの歌手、絵莉千晶の歌が素晴らしかったのもうれしかった。ここは舞風りら舞城のどかの双璧となったブラック・ローズが動きも姿も美しく、実力も華もあるレベルの高い場面になった。

ブルー・ムーンという場面は、短い挿入句のようなものではあったろうが、夏美よう梨花ますみ矢吹翔楓沙樹鈴懸三由岐、というベテランや実力者が、大人っぽく雰囲気のある空気を作れたのがいい。特に矢吹の歌は、いつ聴いてもぞくぞくする。これからも大切にしていってほしい人たちだ。

チャーリーズ・バーの四人の女性ダンサー、鈴懸、舞風、遠野、舞城が、衣裳も大胆だが、とてもセクシーでチャーミングだった。今回たびたび名前を挙げているが、舞城のどかが、めきめき頭角をあらわしている。この公演に続く「ダイヤモンド・アイズ」ではっきりとその実力と美しさを知ったのだが、姿のバランスがよく、動きもしなやかで品があり、見ていて気持ちがいい。

が芯となったダンスはやっぱりいいなぁ、トップになるとトップらしくなるものだなぁなどと、しみじみと感慨に浸っている間に、瀬奈と楓のダンスにも見とれていると、先にもふれたが彩吹の「Oh! クラウディア」、芝居とちょっと歌詞がかぶるところもあって、「琥珀色…」のちょっと近い過去を振り返り、この曲のはやった頃の自分のことなども振り返り、そしてチャーリー(匠)の時間を振り返るという、ちょっと古いニューミュージックを使ったこのあたりから、絶妙な仕掛けである。さすがは藤井大介というべきか。一段落して、夏美のバーテンダーは適役。

匠が銀橋から片脚降りて、全速力の組子を見送るという演出は、涙を誘う。振り返るとか、見送るという、身ぶりと心の動きがシンクロする場面を多く使っているのが、サヨナラ公演にふさわしい情緒や空気を満場にあふれさせている。そうして大階段をのぼる匠の歌を大鳥が引き取るのだが、その大鳥の歌も絶品である。黒エンビの匠はあくまでりりしく、「乾杯」では正装、正課というぴりっとした空気に包まれ、まさにダンスの花組のトップスターとして去っていくという場面が、きっちりと用意されたという、厳粛な思いに包まれた。

これは、お披露目=サヨナラといういささか不自然な、その上体調不良という不本意な去り方をする匠にとって、最高のはなむけとなった。このショーのエンディングによって、彼女はきっちりと去ることができる。最後の手拍子がなんだか普段より速くて勢いがあったように思えたこともあいまって、いいお別れをすることができたように思う。とにかく、いいショーだった。


「カナリア」 シアター・ドラマシティ

異例ずくめの退団発表後の公演だっただけに、痛々しさが先に立って、まともに芝居の中には入り込めないのではないかと心配したが、コメディに徹底したことで、明るく楽しく見終えることができ、ホッとした。

とはいえ、劇は冒頭からポンポンとテンポよく進行したわけではなく、エンジンがかかったのは大鳥れい(アジャーニ)がいきいきと動き始めてからだったように思う。おそらくこの劇の成功は、アジャーニの設定による。特に後半の善人ぶりについては、かなり無理な設定にも思えるが、ゆっくり考えてみると、自己実現という人間の幸福の一つの形態としてじゅうぶん納得することができる。

彼女はそもそも「これ以上の不幸はないぐらいに不幸」とされており、たしかに捨て子、孤児院などと不幸の来歴を説明はするが、意外にカラッとしているところがいい。それはアジャーニの造型として、アグレッシブなほどにバイタリティあふれる女性に描かれていることと、大鳥の演技の大きさによるところが大きい。

大鳥の役どころは、隙あらば金目のものをくすねてやろうと狙っている、浮浪者。すごいな、宝塚でトップ娘役にこんな役を当てるなんて。大鳥のこの劇での演技を振り返ると、アジャーニという役全体のおかしさと哀しさをすべて見通した上で、必要十分な役作りができていたように思う。ワルとしてのおかしさ、徐々に淑女になるその美しさ、ヴィム(匠ひびき)を失うことになったときの哀しさ、すべての面で彼女の魅力がフルに発揮されていたと言えよう。さらに言えば、妙な予定調和ではなく、「アジャーニという女は、あとでこうなるのだから」という見通しが利いた上での奔放な演技だった。

それはたとえば、ちょっと意外に受け取られかねない演技に現れた。アジャーニがヴィムに銀行強盗を誘われたところで、少しためらいを見せる。ここまでのアジャーニなら合点承知とばかりに乗っていくかと思えたのに、意外な臆病さである。今になって思い返すと、後半でいろんなところでいいことしてる善意の人への転換がなるほどとうなずける、一つの伏線であったわけだ。

は、「トム・ジョーンズの華麗なる冒険」以来のコメディ。ヴィムはこれまたホームレスのティアロッサミ(未沙のえる)が飼うカナリアを食べちゃって、「ゲー、ウンコしやがった!」と言って吐き出すという、宝塚のトップにそんなこと言わせるなんて、というような役。アジャーニに宿をと連れて行かれた教会のシーン、身体をゆがめた悶絶ぶりが爆笑。

このヴィムは人間ではないので、恋愛感情の経験がないというのが演技上の一つのポイント。アジャーニに迫られキスされても「今のは何だ?」というあたりが、朴念仁っぽくていい演技となっていた。弱いとされている歌も、第二幕冒頭、太さが出ていて、よかった。

この劇には、正塚晴彦の作品らしいヘンな役が多いが、中でも突飛だったのが、蘭寿とむのディジョン。たちの悪いチンピラ(スリの集金係)だったのが、ヴィムから指輪をせしめてからというもの、すっかり気弱なヘラヘラしたいい奴を経て、犬になって(!?)じゃれ回るまでになってしまう。ヴィムが「これであの男は言いなりだ」と言っていたから、指輪に何らかの悪魔からのコントローラが仕掛けられていたのだろうが、どんな目的だったのかよくわからない。蘭寿はそれなりに奇妙に、しかもかわいく演じていたが。

そのように、何か設定してしまったからそれを回収するために無理矢理作りつけた展開が、セリフやプロットにもストーリーにもあったように思えた。ことに第二幕終盤の地獄での裁きから人間界への「最も弱い者として」追放されるあたり、論理の展開として少々息切れを感じた。もちろん、悪魔が「あの女には良心ってものがないのかぁー」「このごろ、悪魔として正しくないんじゃない?」などという名セリフも、この無茶な設定の産物ではあるのだが。

ラブロー神父役の春野寿美礼は、「あなたは泥棒、私はネコババ。来るなら来い! 天罰」なんていう楽しいセリフもあり、普段の持ち味を生かしながら、さらにもう一回り極端に、ずっこけた味を出せていた。

瀬奈じゅん(ウカ)以下の小悪魔たちは、見ていてなかなか楽しかった。勘繰れば、「エリザベート」の黒天使のパロディ。悪魔が黒服でサンバを踊るなど、突拍子もないシーンもけっこうお洒落に見えたのは、舞風りら、高翔みず希、沢樹くるみら、ダンスのレベルが高かったからか。悪魔学校の教師たちは、ちょっとテンポが悪く、意外に足を引っ張る結果になったように思え、残念。

蛇足だが、ラスト、大切なヴィムを失ったアジャーニは結局「不幸のどん底」に叩き込まれたわけだから、それでさかのぼって合格、ハッピーエンド、という能天気な結末にしてもよかったのではないか。天使養成学院で明るい学園生活を、というのは、笑いの角度としてはシャープさに欠けるように思った。


「ミケランジェロ」「VIVA!」

S 「VIVA!」、勢いのあるショーだったね。

J う、うん。なんだか、真矢みきさんの頃の、やたら勢いだけあって、出演者がぜいぜい言ってそうな「サザンクロス・レビュー」を思い出した。愛華みれは、この公演中ずっとノドを傷めてたと思うんだが、その身体にはきついショーだったろうな。

S ノドだけど、それでかえって歌にいい味が出てたとも思うよ。オープニングでV字に立つ金ピカの衣装に包まれた姿で、やっぱりスターだったんだな、と改めて思った。

J 役名、ミラクル“V”っていうんだよ、すごいな。このオープニングでソロ、アカペラで歌うところ、かなり歌に力があるなと感心した。それを聴いていっしんに拍手している客席の姿にも、なんだか感動したな。芝居のほうがあんまりサヨナラらしくない、かなり贔屓目に見ないとつらい出来だったから、ショーの冒頭で愛華の魅力が出せたのは、ホントによかったと思うよ。

S 他には第六章「VIVA! La Vie!」もよかったね。最近のショーではジプシー(ロマ)ものがけっこうあって、必ず興奮する。ちょっともの狂いな感じに引き込まれるね。

J いきなりだけど、ここの花央レミの動きがよかったな。花央もサヨナラということで、普段よりずっと多くのシーンをもらってたわけだけど、無垢な少年のようなダンスが、新しい風のように感じられて、すばらしかった。こんなの見せられて「ハイ、さようなら」っていうのは、耐えられないよ。

S 泣かない、泣かない。花央といえば、若手男役の女姿を、何というか、楽しめた、よね。ハバナラバーとかいうんだけどさ、彩吹真央、愛音羽麗と並んで、足上げとかも楽しそうにやってた。

J まぁ、一種の色物なんで、面白いんだけど、パラダイスバードでも女姿だろ? いくらフェアリータイプで少年役の多かった花央でもね。それに、このワリを食って、若手娘役の出番がものすごく少なかったのは、大いに不満だ。

S 花組の娘役、いいもんね。第四章「VIVA! Hollywood!」で匠ひびきを中心としたデュエットでも、改めて鈴懸三由岐、舞風りらの細部にわたるダンスのうまさに惚れぼれしたよ。でも、他の場面ではだいたい、よっぽど探さないと若手娘役が見つからない感じだったのは残念。ジゴロ役の樹里咲穂のドラマティックな歌のバックで沢樹くるみ百花沙里が並んで踊っていたところなんて、実に目に麗しかったよ。

J さすがに娘役ウォッチャーだなぁ。彩乃かなみがずいぶんよくなったし、歌もさすがにすごかったしね。じゃ、第四章の終わりあたりで桜一花が軽やかに、まるでエンジェルみたいにかわいらしく動いていたのには気がついた?

S えーっと、次期トップが決まった匠ひびきの話をしようか。

J う、うん。第五章「VIVA! La Musique!」で気づいたんだけど、普通の背広姿がよく似合う人だね。あまり言われないかもしれないけど、ナチュラルすぎるんじゃないだろうか。苦手な歌でもそうだけど、得意なはずのダンスでも、タメというのを作らないね。ワンテンポ、あるいは半拍でも遅らせて観る者をわざと引き込むような、一歩間違えばいやらしいわざを決して使わず、ポーンと自分を放り出す。そこがかわいい、という人もいるかもしれないけど、ちょっとこの魅力を理解するのは難しい。

S えっと、じゃぁ、春野寿美礼、瀬奈じゅんあたりはどう?

J 扱いが大きくなったのには、驚いた。第二章「VIVA! Angel!」というわけのわからないバイオリン職人の話を、それでも何とか見れるものにしたのは、彩乃かなみの歌と、この二人の存在感のおかげだよ、まったく。春野はバウンドの効いた、ひじょうにいいダンスを見せていたし、瀬奈の歌が格段によくなっていたのには、またまた驚いた。

S あっ、「ミケランジェロ」の話もしなきゃいけなかったんだけど。

J もう時間もないだろ? そうだなぁ、ユリウス2世は、汝鳥伶のほうが、格段に、はっきりと、よかったね。それにしても、どうしてクラリーチェはジュリアーノを見つけられなかったんだろう? 

S そんなの、知らないよ。


「トム・ジョーンズの華麗なる冒険」

 観る前から、「退屈。間(ま)が悪い」って言う人と、「すっごい面白い。爆笑」って言う人と、二通り聞いてたんですよ。だんだんよくなってるんだろうな、と期待して行ったわけです。で、ぼくの感想。……難しい。

他愛もない話です。捨て子同然だった男が名家で育てられ、ちょっとだらしのないヤサ男になり、実子に追い出され放浪して本当の親を探す。恋人とも行き違いで疎遠となるが、本当の親は育ての親だったことがわかり、めでたしめでたし、みたいな。

それを演出の太田は、冒頭にラストを持ってきて「これはハッピーエンドですよ」っていう枠をこしらえて、まずぼくたちを安心させました。それから、ぼくはここが難しいと思ってるんですけど、その枠と同時に、太田はもう一つの枠をこしらえているんですね。「クールなコメディにするぞ」っていう意気込みがあふれちゃったような枠です。

 実は観終わって、「化石オートバイみたいな芝居やな」って思ったんですよ。でも、これじゃ関西のごく一部の小劇場ゴウワーにしか伝わらないんで、もうちょっと考えたんですけど、東京の小劇場でいえば、ベターポーヅ(一回しか観てませんが)みたいな作り方をしているコメディ。コメディを演じるにあたって、リアリスティックな演技からちょっとだけ離れた、わざとらしい(といっても大げさなだけじゃなくて)、様式的といってもいいのかな、地上を数センチ浮いているような演技をする。

 このことは、観終わっていえば、この公演のポスターやチラシに実にうまく反映されてたわけですよ。あの変なポスター、すごく作品と合ってたでしょ? 宣伝美術のクレジットはないので、どなたのデザインかはわかりませんが、名作です。そして、舞台美術(装置=島川とおる)もぴったり、しっくりでした。

 つまり、太田は、人情喜劇だけは絶対に作りたくなかったわけでしょう。クールでドライでお洒落な喜劇。これはなかなか難しい注文です。出演者にも、観客にも。それを知っててやってるんだから、太田としては承知の上の敗戦なんですね、失敗作だとしても。出演者だって、傷つかない。巧みな冒険です。……そうか、トム・ジョーンズの冒険っていうより、太田哲則の冒険だったんだ、なるほど。

 さて、ここで皆さんお待ちかね(?)サマセットシャー村バザー大会恒例、各賞発表!

@ 目つきがいやらしい大賞 匠ひびき(トム)。モリー(百花)に迫られてる時にその胸元を覗き込む視線が、すごくリアルで、ホントは女のくせにオジサンみたいやと思った

A そっくりさん大賞 麻園みき(ブリフィル)。声、しぐさ、眉の上げ方などなど、細かいところが姉の麻路さきにあまりに似ていてこわかった

B 普通のお色気大賞 百花沙里(モリー)。「夜の森」の場面でトム(匠)に迫る時の悩殺ぶりがすごかったっす。でもホントにあんなふうに迫られたら逃げるよ

C 倒錯お色気大賞 花の精の壮一帆。花の精たちがU字の花輪を持ってバレエを踊るのが妙に外してるようでユーモラスで、変なシーン。そこへもってきて、これはなんというか、すごい個人的趣味で、告白するのがこわいんだけど、男役が娘役と同じ格好で混じって出てくると、すごくドキドキするものではございますが、それにしても壮は美しかった。ホントは女なはずなのになんで? っていつも思うけど、それにしても他の男役での場面も含め、壮は美しかった

D ぼくの観劇日のアドリブ大賞 沙加美怜(スワッカム)と箙かおる(ウエスタン)。沙加美の発声がちょっとおかしかったところを、すかさず箙がツッコミを入れ、元からです、とか言うのを、箙がしつこくツッコミ続けてました

E 皮肉屋さん大賞 太田のプログラムの文章。あえて解説はしません。「敗者の美学が好きな日本人は笑いが苦手です」

F 大声賞 桜一花(シルヴィア) マダム・ベラ邸のメイド役。来客の名前を叫ぶのが数回、いちいち爆笑させていただきました。第二幕冒頭、仙堂花歩との歌もよかったです

G ダンス大賞 群舞に団体賞、そして個人では高翔みず希(フェラマー卿)かな。もちろん匠も舞風りらも瀬奈じゅんもすごいんだよ。でも、高翔が一番シーンもらって、遊び心のあるダンスを踊ってて笑えたかな

H 太田さん的大賞 沢樹くるみ(ハリエット)。クールなコメディっていうことを一番わかってたのは誰か、っていうのが選考基準、なんかポーカーフェイスだったりビックリ顔だったりで、おかしいのにクールで、きっと太田の思ってたのはこうだったんだろうなと。匠が骨折した時のギプスの扱いなんかも結構タイミングよくて、次点、ってとこ

I ネタばれブーイング大賞 プログラムの配役で貴柳みどりと大伴れいかの身元が明かされちゃってること。こういうのはやめよう


あさきゆめみし ザ・ビューティーズ

 「あさきゆめみし」劇場版の評価は、難しい。映像版が、詩そのものといっていいような美しい言葉(脚本=唐十郎)、夢まぼろしを思わせる詩的な映像(監督=三枝健起)で、現実から浮遊したアナザー・ワールドとしての絵巻物を構築し得たのに対し、現実の舞台というものは、よほどの仕掛けを講じない限り、あくまでリアルなものだ。だから、演出の草野旦は、映像版と全く別の「あさきゆめみし」を作るべきだったのに、映像版の魅力と舞台のリアルさに引っ張られ、絡め取られて、どっちつかずの中途半端な作品になったように思えた。

 劇の作りとしても、物語のヤマをオムニバス形式で集めたもので、一貫した流れを楽しむより、独立した場面の美しさや切実さを味わうものとなってしまった。そのため、断片的な構成となり、源氏物語の複雑な人間関係が把握しにくく、観客にかなりの事前学習を強いてしまい、結果的にやや眠い芝居になってしまったのではなかったか。

 また、そのように詩的な味わいを強調しようという意図が見えたにもかかわらず、時折、台詞や歌詞に粗雑な言い回しや薄っぺらな表現が耳についたのは、残念だ。

 それでも、たとえば朧月夜との別れの場面には、映像版を引きずる形の夢幻のような浮遊感が出ていたし、柏木の嘆き、紫上甍去後の源氏の嘆きと連なる後半では、リアルな緊張感が出ていて、よかった。これは劇として均質な流れがなかったということを言っているだけのことかもしれないが、逆に割り切ってショーのような場面ごとの楽しみ方をすればよかったのだし、愛華みれの懐ろの深さを証しするものともなったようだ。

 愛華は、一見場面場面を淡々と流しているように見えて、実は場面によって的確に演技の質を変え、結果的に光源氏の後半生を過不足なく演じ切っていたように思える。青年時代は青年らしく、位階が登るに連れて威厳を帯びて、という演技の当然の変化はもちろん、リアルな演技と様式的な演技を使い分け、役者としての幅の広さを印象づけてくれた。

 この劇を論じるに当たって、重要なポイントであり、評価に戸惑いながらもやはり好演だったと思っているのが、明石上の水夏希だ。率直にいって、水は歌もつらそうだったし、いわゆる美しい女御として立ち現れたわけではなかった。しかしながら、ちょっと鋭角的でゴツゴツした硬質な感じと、型を強調した動きがいかにも明石上の人となりをよく表わしえており、殊に紫上との対面を滋味あふれる場面として突出させたことを、高く評価したい。これは一つに配役の妙、一つに水の役に対する読みの深さによるものだと思う。

 そして明石上と対した紫上の大鳥れいも、藤壷との演じ分けを美しく綿密にこなしたといえる。源氏が明石から帰京したのを「夢の人、愛しい人、おかえり」と迎える歌を終えて、台詞ではなく表情で深くうなずく表情がしみじみとしていたし、紫上の最期も、実によかった。朧月夜の渚あきも、歌にいい味わいが出ており、重い存在感を際立たせた。六条御息所の貴柳みどりも、台詞回しはもちろん、眼ざしが強く、笑い方も不気味で、適役。

 柏木の伊織直加が見せどころのある、しかも伊織に似合いのおいしい役で、得をした。嘆きがうまく、消え入りそうな人物はまさに適役だが、いつも泣き顔ばかり見せられるのは、ちょっとどうかと思う。瀬奈じゅんの夕顔は、育ちのよさそうな好人物を的確に演じていた。楓沙樹は、朱雀帝という重い役だったが、源氏と居合せるシーンではやや大きさが出ていなかったのが、朧月夜とのシーンでは帝らしい鷹揚なスケールが出ており、関係性を非常にうまく出せていたと思ったのだが、うがち過ぎだろうか。良清の壮一帆の美しくりりしい姿が目を引いた。

 刻の霊という、トート閣下のような役を与えられた春野寿美礼は、美しく、妖しく素晴らしかった。カゲソロもよかった。しかし、全体には解説役の域を出ず、源氏に「さらなる栄華の厚化粧」という言葉を投げるほどには、その生涯をシニカルに見ているようには受け取れず、この劇の中での位置を定めにくかったのが残念だが、これは演出家の問題だろう。黒天使のような刻の響の五人については、幸美杏奈、絵莉千晶、百花沙里の娘役のほうが妖しさがよく出ていた。

 「ザ・ビューティーズ」では、エトワールをはじめ舞風りらの動き、表情、姿、歌が目立ち、飽きなかった。花央レミ愛音羽麗が大きなダンスで目立っていたのもいい。町風佳奈、翔つかさらが美しい姿態を見せてくれたのも、収穫。

はじけた美しさ〜サヨナラ千ほさち

 あれは何だったか、バウホールから降りる階段で花組のある若手の娘役と二言三言交わした時に、その隣にとんでもなく美しい生徒がいた。ああこれが噂の、と思ったが、それを確かめたり、隣に挨拶するのは彼女に酷だと思って黙っていた。それが千ほさちという娘役を見た、初めてのことであった。

 月組には妙に縁がなく、新人公演は見たことがない。バウホールでは、明智小五郎に材をとった「結末のかなた」の彼女は、すごくきれいな人形が坐って、腹話術師が声を出しているような様子だったと覚えている。きれいだけど、この声で使いものになるのだろうかと、心配した。続く「訪問者」では、ぼくは美原志帆ばかり見ていたので、あまりほさちの印象が残っていなくて、ごめんなさい。おきゃんで愛くるしいという、常套的なことしか覚えていない。あれだけの美貌をもちながら、ぼくの目を引かなかったという、そういうことなのだと思う。

 そして花組に移った。「失われた楽園」「サザンクロス・レビュー」がトップ娘役としてのお披露目となった。冒頭での口論、スター誕生のシーンなど、ほさちの性格や芸風とお披露目を意識した歓待だったと思う。ショーもしっとりした味わいとは無縁の、はじけるようなエネルギッシュなダンスが連続し、全体にひたすらに動き回っていたというような感じで、それもほさちには幸いした。これ以後彼女のダルマ姿が見れなくなったのは心残りだが、それはさておき、銀橋に立った彼女が口を開いてビートオンするとき、世界が開いたような眩暈を覚えた。スター誕生の一瞬だった。

 彼女ははじけていた。なかなかはじけられない娘役がゴロゴロしているのにイライラしていたぼくにとって彼女の出現は驚異だった。「ここに新しい娘役が誕生した」と思わせる瞬間をもちえたということは、まさに劇的なことだ。

 結論めいたことに飛躍するが、彼女は真矢みきに合っていた。二人の間で感情的にどうだったかは知らないが、「Ryoma!」も「ザッツ・レビュー」も「ブルー・スワン」も「SPEAKEASY」も、相手が千ほさちでなければ真矢はああはできなかったのではなかったか。「エデンの東」や「花は花なり」でも真矢は確かに真矢なりの「個性」を獲得しつつあったが、それを決定づけたのがほさちとのカップリングだったと思う。前のトップ娘役も大阪出身だったのだから、同郷だからというわけではないだろう。真矢が新しい<個性>的な男役像を模索する方向性と、ほさちのはじけ方がうまく作用したのだ。ただしそれが真矢にとって、ほさちにとって本当によかったかどうか。真矢が、こう言ってよければどんどんガラッパチに流れていくのを助けたのが、ほさちの破裂したような癇性にも近い持ち味だった。真矢が自らの<個性>として選び取ったあのような男役像を作品として定着させ、決定づけてしまったのが、石田昌也と千ほさちだった。そうして作り出された世界は、真矢にとっては満足できるものだったろう。彼女は、比較の問題だが真矢のトップとしての寿命を確実に何公演か延ばしたし、真矢の<個性>を正面から受け止めた上で、自分の魅力として取り込み、爆発的に輝くことができていた。その意味で「おそるべき」といっても大げさではない、すぐれた娘役だったといえるだろう。あるいは、毒婦の気さえ持っていたかもしれない。

 彼女の退団に至る経緯について、いろいろといわゆる噂のベースで聞いてはいるが、とにかく最後の作品となった「SPEAKEASY」が彼女のサヨナラに相応しい作品でない結果となってしまったのは、残念だ。宝塚における千ほさちの代表作は、どうしたって「ザッツ・レビュー」のお仙ちゃんということになる。彼女が「召しませ、花を……」と歌って姿を現すとき、その美しさに会場から声がもれたのを、ぼくは何度か聞いている。そのような圧倒的な美しさを宝塚で見ることができないというのは、あまりにも惜しい。あのような美しさを作ることができるのは、宝塚以外では、……皇室ぐらいしか考えられない。ほさちの高貴な「お姫様」役を、やはりちゃんとした形で見ておきたかった。

 もう一度ラストシーンを思い出して彼女に別れを告げよう。東宝劇場に別れを告げにきた泰平(真矢)。眼疾が悪化し、失明状態であるようだ。やはり劇場に別れを告げにきたお仙。「泰平さん」と声をのむ。さまざまなことに諦めている泰平に、お仙が「花のレビュー!」と涙を絞ってメロディも消えたがごとくに歌いかける。そしてもう一度二人で歩いていこうと、銀橋を渡り、ここでもうほさちの両眼は大粒の涙でいっぱいだ。

 思い出せば、ほさちは涙を流すときも爆発的だった。その涙が、宝塚大劇場に注がれることはなかった。1000days劇場という仮設劇場でサヨナラを告げるというのも、妙に千ほさちというトップ娘役にふさわしいような、不思議な気持ちがしている。


SPEAKEASY、スナイパー

 花組大劇場公演、真矢みき詩乃優花サヨナラ公演を見てきました。客席には霧矢、千紘、それから美月亜優さんの変わらず美しい姿が見られ、うれしく思いました。

 ぼくは1階A席最後列で見ていたんですが、客席の中を歩く真矢みきにスポットが当たって、それが客席にも柔らかく広がっているのが、本当にきれいでした。

 「SPEAKEASY」は、禁酒法時代のもぐりの酒場という意味で、ラークのコマーシャルじゃなくて、クルト・ワイル作曲で有名な「三文オペラ」をベースにした谷氏の作品。聞き慣れた音楽がたくさん出てきて、親しみやすいはずなんですが、冒頭、狂言回しの伊織直加から始まった歌にはなかなか乗れなくて、これは編曲に無理があるのか、構成に無理があるのか……と心配しました。ワイル&ブレヒトのドイツ的な部分と、舞台のアメリカ=シカゴの空気、そして宝塚が喧嘩してしまうんじゃないかと。また、「モリタート」という歌は、確かに耳に親しい曲ではあるけれども、いろいろ工夫してアレンジしているにもかかわらずどちらかというと軽妙な感じの曲だから、オープニングには相応しくないのではないか、と思いました。しかし、何人目かに詩乃優花が歌ったところで、舞台の色調がはっきりと決まったように思えて、それからは舞台の世界に入り込んでいけたと思います。

 死刑執行前夜のマック(真矢)のところにミュージカル作家の伊織が来て、マックの半生の真実を聞くという格好で、最後はまた死刑執行直前に戻っていきます。構成だけ見ると「エリザベート」に似ていて、ルキーニと同じように狂言回しもいるわけです。谷氏の「武蔵野の……」もそうでしたし、「イカロス」「エクスカリバー」と、このような狂言回しが語る作品が多いですが、これはちょっと安易ではないかと思います。芝居が作りやすくなるのかなあ。

 瀬奈じゅんが美しく堂々としているのにはびっくり。新人公演主役に抜擢されるだけのことはあります。歌はよく聞き取れなかったけど、姿、柄に大きさが出ていました。

 美しくなっていたのは、沢樹くるみ。目の描き方を変えたのと、痩せた? あごの線がくっきりと出ていて、雪組でやつれていた頃の星奈のようで、ちょっと心配でもあるのですが。手足のさばき方の美しさ、姿勢、表情、何をとっても文句ありません。「倒れるほどのダイエット」じゃなければいいんですが。新人公演、本当に楽しみ。

 逆に目立たなかったのが大鳥れい舞風りらといった、ホープの地位に片手をかけたまま宙ぶらりんになっている若手娘役陣。特に舞風はいつまでもこんな使われ方ではちょっとかわいそう。

 他に目立ったのが、詩乃はサヨナラだからわかるとして、渚あき。ところが、妙に遠慮してるように見えてしまってもったいない。ここはパワーで押しまくればいいのに。

 詩乃はいきなり出てきて過去の秘めた時間を想像させるという難しい、しかしお得意の役どころ。さすがにきっちりと演じていて、一時の花組って、こういう芝居のできる人がたくさんいたよなぁと思ってしまった。

 蘭寿トム蘭香レア、名前も似てるし学年も似てるし、区別が付かない方もいらっしゃるかも知れませんが、二人がほとんど対のような形で出てくるので、どちらかがわかれば一方もわかるようになると思います。フィナーレのマイク前で上手が蘭香、下手が蘭寿(でしたっけ)。二人ともいいですね。特にぼくはこれまで蘭香の方をよく見ていましたが、動きもシャープさを増したようで、ぼくの中では急上昇中。蘭寿がいい表情、動きをしているのにも驚きました。

 さて、皆さんが心配している(?)、次代を担う花組男役たち。匠ひびき、伊織はそつなく無難に、というところでしょうか。二人とも歌は魅力的じゃないけど。匠は州知事に立候補している警視総監で、戦争中マックに瀕死のところを助けられて頭が上がらない、というおいしい役どころ。お芝居は特に問題ないと思います。州知事選挙のシーンが「JFK」に何だか似てて、これまた「谷氏よ、コラージュはやめておくれ」と思ったりしました。ただ、匠のダンスが、一時のキレや柔らかさを失っているように見えるんですが、どうでしょう。踊れる男役が少ない組だけに、これからの花組のショーの成否はこの人にかかってしまいそうで、なおのこと心配。

 伊織は相変わらず人柄で芝居をしているような気がしてしまって、その意味ではもう一皮むけてほしいところ。これまた湖月クンに続いて、ルキーニの練習?

 春野寿美礼真由華れおはあまり目立たない感じでした。難しい時期ですよね。このあたり注目していた人は、どんどんフォローしてください。

 真矢のいない中詰、愛華みれの存在感がドーンと出せるかと思いましたが、ちょっとまだ無理でした。お披露目に期待しましょう。

 千はいつもの感じです。ただ、ウェディングドレスがあまりに貧相というか、安っぽそうだったのがかわいそう。衣装代、全部ショーにもっていかれたんかなぁ。あと、熱演なのはいいけど、胸の谷間を汗で光らせないでほしい。なぜ?と言われても困りますけど。どこ見てんねん、と言われても困りますけど。

 ショー自体は、あまり面白いショーではない。「シトラスの風」の「これでもか!!」というような迫力までは望まないにせよ、見どころがなさ過ぎるような気がしました。ダンス、歌の名手がいないせいでしょう、「ぅおおーっ」と思わせるような場面がないんですね。つらいです。真由華、眉月凰、蘭香あたりがブンブン踊るのを見たかったんだけど。

 ユダヤ人のゲットーのシーン、やっぱり余計だと思いました。磯野千尋さんが鉤十字つけて虐待……それって「国境……」みたいやん。あの手の非常事態下でのヒロイズムというのは、嫌いではないけど、もう少し美しく見せられる設定があるんではないだろうか。

 ハリマオもちょっと苦しい。石田氏は、以前マリコちゃんのディナーショーだったかでもそうだったと思うけど、自分だけのノスタルジーに浸ってしまうところがないですか? 説得力ないですよね。タモ以下生徒が真面目にやってるのも何だか可笑しかった。

 タモと言えば、スターがフォーカスされてっていう場面の最後で、「松田聖子の記者会見に行かなきゃ!」って言って笑わせてくれました。といっても、ぼくは家に帰ってから、そういうことだったのか、とわかったんだけど。

 エトワールは男役若手3人。ここは幸美杏奈あたりに振ってあげたかったな。

  

花組大劇場公演「ザッツ・レビュー」81711:00、噂の、みきちゃんがこけた回に見てきました。

やはり感動したのは、真矢みきがオープニングで階段を数段踏み外した後の銀橋、客席の大拍手と手拍子です。ぼくたちが宝塚歌劇を観るということは、ほとんど観劇ということよりも、一種の連帯を味わいに行っているのではないかと、深く感動しました。

そのようなレベルで、この公演で感服したのは、千ほさちの度胸です。彼女については、デビュー当時から注目もし、「訪問者」でその美貌については認識したものの、声のベチャベチャした感じをどうしても受け入れられず、好感が持てずにいたのですが、今回、まさに体当たりの全力の演技は、強烈な説得力をもって迫ってきました。

基本的には、おきゃんで勝ち気なお転婆娘、でもその勝ち気さゆえに思っている人に思いを打ち明けられず、自分で焦れてしまう少女→女性です。こういう役柄については、彼女は地でやれるというのか、無理せずチャレンジできていたようで、安心して観ていられました。また、それを受け止めるだけのトップの器量というものが、真矢みきに十分備わっていると再認識させられたのも収穫。正直に言うと、みきちゃん、寿命が延びたな、というところ。もっともっとこの二人のコンビを観ていたいなと思います。

それにしても、植田先生の説教癖には辟易。お金を払って観に来ている客に向かって、レビューの歴史だか伝統だかを大事にしようだとか、それは方向性として間違っていると思う。歌劇団がいいステージを作ってくれれば、ぼくたちはちゃんと観に行くわけで、それが植田氏以下の仕事です。つまらなかったら観に行かない、そしてとことんつまらなくなれば宝塚の灯は消える、そういうことです。レビューについての長広舌を1/3ぐらいにして、千ほさちらのレビューのステージの一部分でも見せてくれたら、もっと豊かなステージになったのにと、残念です。

全体的には、無理矢理感動させられるような感じもなきにしもあらずですが、みきちゃんとほさちの自由闊達で体当たりなところでマル。

ただ、主役級以外の出番・見せ場が少なすぎた。若い子たちなんか、数場面で羽根扇を振ってるだけで終わってしまった感じで、お気の毒。これでは下級生のファンがついて行けない。その上、エトワールをほさちが取ってしまったのでは、脇役、若手の立つ瀬なしです。生徒のやる気、ファンの行く気をキープするためにも、座付き作者の意地にかけても、より多くの生徒に見せ場を作ることに腐心してほしいなと思います。渚あきなんか、かわいそうでしたよ。

まして、フィナーレで、芝居の役の衣裳で出てくるのは、華やかさに欠けるので、好きじゃない。「国境のない地図」でも出雲綾が老婆みたいな格好で出てきて可哀相でしたが、やっぱりフィナーレはフィナーレしてほしいな。

 

 バウ・ミュージカル・コメディ「君に恋してラビリンス」

 1997420日(日)、バウホールにて。小林公平氏がご観劇。また、音木美香さんの姿を見かけたように思ったのだが、幻だったのかも知れない……。

 冒頭の初風緑のダンスが何とも硬くて、これはどうなることかと心配したが、結論から言って、かなり楽しめる、上質なライトコメディに仕上がっていた。特に第二幕、「シーン7(カツァリスの恋)」での海峡ひろき美月亜優の再会以後のステージ全体の盛り上がりは、大したものだ。終演後、ロビーに貼ってあったポスターの初風と伊織直加をポンポンと叩いて「二人ともよくやったね」と声を掛けているおばさんがいたが、同感である。初風が「実は……」と告白する場面での大鳥れいの受け方など、芝居の運び方に何ヶ所か「?」を抱いた部分はあるが、初風、伊織、ギャング役の朝海ひかるらのユーモラスな役作りや掛け合いも楽しめたし、<代役>策のてんまつがどのようになるのかというハラハラした気分も味わえた。

 名門同士の結婚話、互いが互いを「観察」しようと他人とすり替わって影から相手を観察しようとする、というのが話の発端。億万長者の息子オービット(伊織)が失業青年ルディ(初風)に、お金持ちの令嬢パトリシア(舞風りら)がダンサー志望のマリー(大鳥)に<代役>を頼む。ところがルディはマリーに、オービットはパトリシアに引かれてしまい……。

 初風については、歌も演技も達者で、ユーモラスな演技も上々。からだの動きについては、腕が短く見えてしまうところなど、まだ少しノリが悪いのか、あるいはケガの後遺症があるのかと心配もされる。

 伊織については、歌も演技も伸びやかで、オービットとしての育ちの良さを見せるのはお手の物なのだが、「エデンの東」新人公演の印象があまりに強烈なせいもあるのだろうが、少し影のある屈折した表情も見逃せない。そのために、今回のオービットも、ただのお坊っちゃんであることを少しだけ超えて、パパがどんなに反対してもこの思いを貫くぞという決意の強さが現れていたような気がする。

 男役でとにかく目立ったのは、ギャング・マーティ役の朝海の存在。芝居ではチャリを付けるための演出だろうがところどころ声をひっくり返したりして爆笑を誘っていたが、ダンスシーンになると、長い手足を存分に伸ばし、大きさと速さを兼ね備えた美しい動きで、群を抜いていた。姿の美しさでは、文句ないだけに、うまく育っていってほしい。

 また、最下級生ながら、蘭寿とむも大きなスケールと豊かな表情で目を引いた。

 娘役では、もちろん相手役の大鳥、舞風はよくがんばった。大鳥は「エデンの東」新人公演でやや不評だったようだが、舞風と比べるとややお姉さんということもあってか、少し余裕を持って舞台に立てていたように思う。ルディに「愛している」と告白されたあとの脳天気な舞い上がり方など、良くできていたと思う。スタイルもよく、そう欠点が見あたらない感じなので、もっと自分を美しく見せる方法を工夫して、華やかになってほしい。舞風については、前回バウの「香港夜想曲」よりずっとやりやすそうで、のびのびとやっていた。ちょっと発声が浮く感じなのが気にかかるが、欠点という程のことではないだろう。全体的に小柄なので、もっと華やかな雰囲気を持つような努力や工夫をしてほしい。個人的にはとても好きな娘役なので、なおのこと、そう望むわけです。二葉かれん、幸美杏奈も要所で好演。

 海峡、美月の二人がこれで宝塚から去ってしまうというのは本当に惜しい。この公演でも、二人が出てくると舞台がグッと引き締まり、その後のテンポが見違えるようになったことは既に述べたが、この二人にこの段階で辞められては、あとの花組の舞台が本当に心配になる。舞台には重しが必要だが、この二人はまさにその役目をずうっと果たしてきている。「冬の嵐」や「ハウ・トゥ・サクシード」の美月、「Last Dance」や「Ryoma!」……の海峡など、思い出すとゾクゾクするような存在感だった。7年間の牢獄生活を経て出所してきた男・カツァリスというのが今回の海峡の役どころ。それを待っていたアンナが美月。その再会のシーンの静かに燃えるような激しさは、これまでの二人の名バイプレイヤーとしての集大成として見てもいいかも知れない。実際の舞台以上に、これまでの名場面を重ね合わせて。隣の女性が海峡のファンらしく、海峡が出てくるたびに涙がこらえきれずにグスングスン泣いていたが、ぼくも何度かもらい泣きしそうになった。(420日)

 近松に直結するカタルシスとしての宝塚
 1020日、宝塚歌劇花組公演「冬の嵐、ペテルブルグに死す」を見る。脚本・演出=太田哲則、主演=安寿ミラ森奈みはる。

 プーシキンの「スペードの女王」を下敷きに、大望を抱きながら持て余し、周囲を傷つけ、ついには自ら崩壊していくデスペレートな青年を描いた、「清く、正しく、美しく」という宝塚歌劇のイメージを打ち破るような悲劇(惨劇)である。前回「ブラック・ジャック」でアウトローの医師を好演した安寿が、さらに影を深めて宝塚におけるヒーロー像を広げた意欲作である。

 悲劇の質は異なるが、友人の善意の無視または誤解、没落を自らの手で招き寄せるという点で似通っている近松門左衛門の文楽「冥途の飛脚」('918月、国立文楽劇場。吉田玉男、吉田簑助。道行きまでの部分上演)では、梅川・忠兵衛の道行の「冥途の道を此のやうに手を引かふぞや……」といった美しい詞章によって忠兵衛のやや身勝手な悲劇を昇華させることができた。しかし同じ作者の「女殺油地獄」(原宿文楽。九一年七月、近鉄アート館。簑助、桐竹紋寿)では、見る者は虚無的な強盗殺人を消化することができず、不条理な悪を抱えたまま家路につく。あえて救済を求めるなら、油店での立回りの見事さをはじめとする個々の芸にしかありえない。

 「冬の嵐」に戻ろう。この劇で恋の軸は淡い。安寿のヘルマン(落魄した詩人だったが、後に近衛少尉)とリーザ(森奈。ヘルマンの友人の婚約者)は、何度か手紙を交わし、一度カフェで密会し、次に(最後に)会うのはヘルマンがリーザの養母の伯爵夫人(美月亜優。好演)から「絶対に勝つ」というカードの秘密を聞き出そうとして脅し、夫人がショックで死んでしまった後だ。そもそも友人の婚約者という道ならぬ恋であった上に、思い違いや行き違い、ヘルマンの自暴自棄で内攻する性格もあって、リーザは運河に身を投げ、ヘルマンは拳銃の暴発で死んでしまう。彼は薄らぐ意識の中でリーザの幻を見、「君と一緒に幸せを掴もうと思っていたんだ。すぐに行くよ。君のそばへ」と言って事切れる。そしてここからが宝塚の真骨頂と言ってよかろう、二人が純白の衣装に身を包んで踊る、美しいエピローグが始まるのだ。ここで見る者は、二人のこの世ならぬ美しさを見て、死によってしか結ばれることのなかった二人を、やや戸惑いながらも祝福することができる。これは近松劇の道行に相当するが、近松ではあの世での結ばれは直接には描かれず、見る者の想像に委ねているのと対照的だ。

 実に安寿は宝塚には珍しい、闇を演じられるスターで、四月での退団は惜しんでも惜しみきれない。彼女なしにこのような惨劇が上演されることもなかっただろう。僕たちがこの劇に戸惑いながら、なお彼女らスターのレベルの高い演技に感動し、よかったねと囁きながら「花のみち」を帰るからには、宝塚で演じられる悲劇は、本当の意味でのカタルシスを実現していると言えるのではないだろうか。 (「現代詩手帖」19952月号)


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 上念省三