呆然リセット 冬樹ダンスヴィジョン

パウル・パンハウゼン 花嵐 塙香奈芽 マリ=クロード・ピエトラガラ BISCO ピナ・バウシュ ヒュン・ヘア・バン 平戸健司 フレイ・ファウスト 藤田佳代舞踊研究所 藤野直美 フルカワトシマサ Poety Party Host Unknown Popol Vuh 

パウル・パンハウゼン

Paul Panhuysen '34年オランダ生まれ。エイントホーフン在住。'59年、ヤン・ファン・アイク・アカデミーを卒業。'57'61年、ユトレヒト州立大学にて芸術社会学を学ぶ。'59年より絵画、パフォーマンス、インスタレーションなどの活動を始める。'80年に「アポロハウス」を創立し、ディレクターとして現在も活躍中。'68年にはアートと即興を結びつけた「マチウナス・アンサンブル」を結成。'82年よりヨハン・フットハルトと共に開始した「ロング・ストリングス・インスタレーション」シリーズを展開している。近年の作品に「カナリア・グランド・バンド(KGB)」等のサウンドイベントがある。

 '94103日、ポートアイランド(神戸)のジーベック・ホールへ行く。パウル・パンハウゼンの「ザ・コウベ・ロング・ストリングス・コンサート」が目的だ。彼はオランダのアポロハウスというところで、マルチメディア・アート、パフォーマンス、サウンドアートのディレクションを行なっているそうだ。

 「ザ・ドラム・キッズ」(缶や壷に差し込まれた竹の棒の先のモーターが缶や壷を鳴らし、サンプリング、増幅によって自動演奏する)、「ア・ビット・オブ・ラビット」(ゼンマイ仕掛けの兎の人形が鳴らすギターに合わせ、パウルが歌う)など四つの作品すべて、なんらかの機械仕掛けを使って音を出し、彼がそれに原初的な方法で対決する形で徹底的なノイズを繰り出すところに面白さがある。

 たとえば「ナンバー・メイド・オーディブル」は、ステージに張った長いワイヤーを、松脂を塗った手で擦って音を出す。初めは音洩れのする出来損ないのアコーディオンみたいな微かな音で、両手を広げてワイヤーを擦って舞台を左右に歩く彼の姿が、まるで空を飛んでいるようにも見えて、ある平和な情景を作り出した。それが、PAが入って音が増幅された途端、ノイズのみが強調され、耳を撃つ生理的な反撥を引き起こす音の塊に姿を変えたのだ。パウル自身、そのノイズの塊に撃たれてデスペレートにノイズを増幅させているように見えた。

 確かにこの空間は、強烈で残忍とさえ言えるような力で歪められ絞られていた。ワイヤーはピタゴラスの定めた6:8:9:12という音律に従っていて、それがタイトルに繋がっている。ピタゴラスの「ナンバー・メイド・オーダラブル」をもじって名付けられ、発想された行為だが、そのような理性的で秩序に向かうコンセプトから出発していながら、結果的にはパウル自身も語っていたように、制御することを放棄した、秩序(オーダー)を壊してノイズが跋扈するアンコントロラブルなステージになったのが、音楽によるパフォーマンスの極点を見たようだった。


花嵐「果肉」 20001011日 ArtComplex1928

 花嵐というユニットは、由良部正美のワークショップを経た古川遠、伴戸千雅子、むしちゃんの3人の女性から成るが、今回は彼女たちのワークショップを経た数名を交えて、総勢9名という大人数の公演となった。

 冒頭、上半身はだか、裸足で佇立している女性。後ろからのライトということも作用したのか、そのたわわな身体は、神聖というと大げさすぎるかもしれないが、手に届かない存在であるような印象を与えた。暗転の後、今度は9人が立っている。絵としてもなかなか美しい。徐々に満ちてくる感じになり、腕が広がり、愛らしい趣きでふくらんでいく。いろいろな身体があり、いろいろな開き方があるなぁと、9人が同じような動きをしていながら、だからこそそれぞれの違いが豊かに感じられた。彼女たちには何が見えていてそんな顔をしているのか、ぼくも同じものを見たいなと思うほどに、みんないい顔をしていた。開いたその口から徐々に唾液も流れてきて、沈み込み、半眼になっていく様を見ながら、身体表現としては素朴でいくぶん幼くもあるこの直線的な時間の流れを、大変いとおしく思った。

 続く伴戸の時間は、理解するのに少し時間が必要だった。黒い服を着て就職の面接を受けるみたいに椅子に座って、彼女は自己紹介を始める。父はヘイゾウという名前だとか。そしておもむろに虚空の大福餅を食べるようなフリをし、「大福? 詰まりますねぇ」などと言うものだから、あっけに取られて客席は大笑いだ。あっけに取られながら次第にわかってくるのだが、これは動きと言葉の絶妙な連鎖であったのだ。はじめは、ある設定を言葉で作って、その中での動きを作っているのかと思ったが、むしろ動きの連続に言葉がついていっているところもあり、これはおそらく希有な言葉と動きのコラボレーションだなと、感動した。

 他にも、随所に彼女たちの突き抜けたような天井なしの明るさや風通しのよい自由さを感じることができた。人の身体が風の通る穴であることを知らされたり、身体を引き絞って引き絞った後にパッと緩める解放感の楽しさを味わったりすることができた。

 ラストでは、6人のメンバーが長い時間正面を向いて、かなり経ってから腕を身体の前で交叉させ、上衣をひっくり返して顔にかぶせる。顔が覆われ、乳房があらわになる。ここで長い時間が費やされたことの意味がたいへん豊かに貴く感じられ、愛らしさと共に痛々しさを受け止めてしまった。

 顔を覆われた乳房というと、一歩間違えれば人格を排除した性ということで攻撃の対象にもなりかねないのだが、逆にこの無名性を獲得することによって見えてくる普遍性と強調される多様性というものがある。当日配布された資料に「果実の皮を剥ぎ、種をこそぐ。肉体の皮を剥ぎ、骨を抜く。何処までも曝け出しながら疾走スル果肉は、腐り垂れ落ち新しい種子を地面に生み落とす」という文章が添えられていたが、そういえばこの一連の過程を、このステージはなぞっていたように思えるし、この不変の真理を的確に伝達していた。

というのは、平凡な物言いをすれば、女という性のもつ運命と特権ということなのだが、それをこれら若い女たちの多様な身体という見せ方で提示できたことがよかった。方法的にそれが最も効果的であると思われたのは、長時間その身体をさらけ出すということによって見る者も見られる者も現実的に変化したことだ。せいぜい数分間であったろうその時間が、凛とした緊張を帯びて、疾走スル果肉が新しい種子を地面に生み落とすために必要な時間のように思えた。乳房をあらわにするという、見る者にも見られる者にもスリリングなできごとが、このことを実現したといってもいい。シンプルでありながら、だからこそけっこう巧妙な仕掛けであったことがわかる。


 花嵐の「果肉 」もまた、様々な意味で面白かった(1011日、Art Complex 1928)。全身を引き絞って引き絞って、最後の瞬間にこちらにドーンと一歩を踏み出すがむしゃらな迫力に感動していたら、最後の一歩でヒョイとはぐらかしてワルツを踊り始めた、その天井なしの突き抜けた明るさには、本当に感心した。今もその時の3(古川遠、伴戸千雅子、むしちゃん)の姿が心に焼きついている。そしてラストのパートでは、他の6人のメンバーが、長い時間じーっと正面を向いている表情、それから一人一人腕を前で交叉させてゆっくりと上衣をひっくり返し、顔を覆って乳房を露わにするのが、愛らしいとも痛々しいとも思え、非常に大きく重い時間であったことも忘れられない。伴戸の言葉と動きの絶妙な追いかけっこも含め、とても楽しく面白く、豊かな公演だった。(P.A.N.Press

 


塙香奈芽演出「Dance Performance

1998530日 於・豊崎東会館。塙香奈芽の演出で、4人の若い女性ダンサーによる、やや即興的なダンス公演。

 チラシはなく、タイトルも特になく、どのようなコンセプトによる作品であるのかという取っかかりのほとんどない公演だっただけに、どんな雰囲気で始まるのか、どんな姿勢でそれを受け止めればいいのか、始まりからしばらくは緊張する。観る者がゼロであるそのような緊張の中に、微笑みをたたえたり、何か探しているふうだったり、何かを期待しているような顔が、跳ぶような歩き方と共に現れる。それが彼女たちの志向にとって、過剰なものなのか適当なものなのか、わからない。観る者もまた手探りだ。最初のパートは、そんな気分をよかれあしかれ正直に反映するように、彼女たちが何かであるというより、何か以前であること、何かであろうとしている最中である存在であることを印象づけるような、さざめく身体の立ち上がりとして提示された。

 全体には、4人は小動物のような愛らしいしぐさ、きょろきょろと落ち着かない感じの表情、ちょこまかした動き、などを多用しつつ、ゲームのような軽快なテンポの連続によって、キュートでファンシーでありながら後味のすっきりした、面白い作品となった。

 一つ一つの小さなしぐさや動きがちょっと膨らませられた後で断片として転がっているような、悪く言えばおざなりな感じが、一つの空気として大切にされているように思った。それはあるいは即興としての詰めの甘さだったのかも知れないが、それぞれの断片は、ある豊かな物語の断章であるような雰囲気を、彼女たちの奔放な表情やしぐさに伴われる形で持っている。断片であることで、彼女たちの身体の空気の豊かさが強調される。4人が何か一つの世界を、たとえば会場のちょっと奥のほうにとか想定=仮構していて、それはぼくたちには見えないのだが、そこから送られてくる信号に彼女たちが反応しているような、ちょっと不思議な世界の成り立ちだったのだ。

 具体的にはパイプ椅子を高く積み上げていく、というのが彼女たちに課せられた作業である。それはもう、奇跡的にと言いたいほど、微妙なバランスで高く積まれる。なぜだか感動する。テレビでよくドミノ倒しの記録を作るとかいう番組があって、ばかばかしいと思いながらも見てしまったりするが、そんなような感動のように思えて、ここで感動するなんて、ダンサーたちに失礼だよな、と思いつつ、最も無邪気に感動しているのが当の彼女たちだったりするから、安心するというか、ちょっと拍子抜けしたりもする。それはちょうど子どもたちか妖精たちか小動物たちが、遊びのつもりで始めたのがとても真剣なことになってしまって、大変だ、というような、やや予想外の雰囲気も持っていたりする。しかしやっぱり彼女たちはその椅子の塔を孤高にそびえ立たせておくわけにはいかなくて、ちょこまかとチョッカイを出しにいく。ヒヤヒヤしながら見ていたら(それほどに、危ういバランスで立っていた塔だったのだ)、心配していた通り、塔は崩れてしまう。

 これはきっと、予期せぬ展開だったろう。そして彼女たちは、再び塔を作ることを決意するのだ。「決意する」のがしぐさとして現れているところなども、また大変微笑ましいものである。一つの即興的な作品の流れとして、このようなドラマティックな展開は、あるいは余計なものかも知れない。しかしかえってこれが、彼女たちの言うなればシンプルな情熱を実にみごとに表わしていた。それを何かの喩として語れば、語るに落ちるという結果になるに決まっているが、こんなホロッとさせるような感動が、このような表現的でないダンスから自然に導かれる結果を得たことは、ダンスというジャンルにとって、喜ぶべきことだと思うのだ。

 それがごく自然に生じてきたことについては、加藤久恵をはじめとするダンサーたちの伸び伸びとした動き、フラットなスピードを持った純な身体の動きのさわやかさ、といったものが大きくプラスに作用していたといっていい。特に加藤は、森美香代のユニット等で何度か見てきたが、豊かな表情と動きの鋭さで、見ていて大変楽しい、チャーミングなダンサーだ。


マリ=クロード・ピエトラガラ

パリ・オペラ座のエトワール、マリ=クロード・ピエトラガラのソロ「Don't look back」で、彼女の美しさと完璧なテクニックについては改めて言うまでもない/スピーディで正確な動きのうちに白いドレスを脱いでボディスーツになったり、男の衣裳を着たりすることで、人格を着脱する/溜め息のつき方一つとっても計算されて美しく、ドラマティックなダンスだ/過去の自分のアイデンティティの分裂を治癒させるためにか再び辿りつつ、最終的に本当の自分はどれなのか、ピエトラガラとは誰なのか、と陶然と問わせてしまう、美しくも焦れったい1時間余だった/彼女の身体はバレエに特化された形跡がなく、普遍的な問題を個的に抱えたままストレートに提出する/身体表現そのものの彼岸でジャンルや性別の境界を自由に行き来し、現代の人間の心許なさや寄る辺なさを鮮やかに見せてくれた '96.7.27.シアター・ドラマシティ(JAMCi '96 10


BISCO

BISCOの「読5〜ザ・フィットネス2」(振付・演出=小夜里)については、ちょうどこの2日前に芦屋のスペースRで観ていたので、ちょっとシンパシーも感じながら。スナック菓子を食べる一人の女、ダイエットのためのフィットネスの能書きとマニュアルを朗読する女、白い着ぐるみのダンサーたち。朗読に合わせて、ダンサーたちがウォーキングとか、スイミングとかの振りを見せるのだが、無表情に言葉に合わせて動くのがかわいらしく、おかしくてしょうがない。最後にはおさらいとして、それまでの動きを連続させた、いわゆるダンスの作品として提示する。言葉に対する動きの当て方は、お遊戯といっても差し支えないほどベタでシンプルなのだが、「かわいい」ことについてそれほど攻撃的ではなく、素直に受け入れているらしいことに、好感が持てる。テキストに込められた若干の皮肉っぽい調子も適度に温和的だし、すべてにわたって適度であるところに彼女たちのバランス感覚のようなものがあるのではないか。スペースRでも大好評だった「ズンドコ節」にしても、素朴な当て振りが、あまりの素朴さに爆笑を誘うといった仕掛け。一方でこのメンバーがGOZAZOOとしては、ジャズやヒップホップをベースにした、きっちりした作品を出してくるのも、面白いところ。(ダンス・ショーケース(パフォーマンス・アート・メッセin大阪2001731日 グランキューブ大阪)


こんなにも自由であるために〜ピナ・バウシュ「炎のマズルカ」

ドイツのルール地方にある小さな工業都市、ヴッパタールという町の舞踊団の芸術監督に、ピナ・バウシュという女性が就任したのは、一九七三年のことだった。現代舞踊の中で「タンツテアター」(劇的なダンス)という独自なジャンルに位置する彼女は、この町を本拠に、世界各都市に招かれては、多くの作品を発表してきた。今回びわ湖ホールで上演された「炎のマズルカ」も、一九九八年にリスボンで作られた。

一般に彼女の作品は、一貫したストーリーが流れる演劇性が特徴であるとされてきた。しかしこの作品では、全編を貫く明確な物語の流れよりも、ダンサーの身体の動きの素晴らしさ、個々のダンサーの体験にもとづく鮮やかなイメージが、何ものにもとらわれることなく、自由にちりばめられているのを楽しむことができた。

現代舞踊というと深刻で禁欲的で難解なものと思われるのが常だが、この公演では寸劇めいたシーンから笑いが起こり、外国人の話す奇妙なアクセントの日本語が雰囲気をやわらげた。舞踊は言語を使ってはならないとか、現代舞踊は演劇的ではならないというような制約から、自由であろうとすることから来る喜びが直接伝わったものだ。

その喜びとは、身体が動こうとすること、ダンスしようという欲求に忠実であることから発している。ソロで踊るダンサーたちは、それぞれの身体の特性と魅力を生かしながら、非常にレベルの高い動きを存分に見せた。それはもちろん身体がその制約を感じることなく、思うままに自由に動ける状態であるために、的確な鍛練を積み重ねた成果である。

その自由がもたらされるために、現在の舞踊にとってルーツと呼べるような、民衆が日常的に歌い踊る、素朴ながら真剣で生活に密着したダンスや音楽への尊敬と感謝の念が強調されていたことが、静かに印象に残っている。町のダンスコンテストで緊張した面持ちで踊る少年と少女の姿の映像に、彼女はダンスを始めた頃の喜びやときめきを普遍的に追体験しようとしたのではなかったか。こうして彼女は、人間の営みの継続性と広がりを、とてもしなやかに柔らかに、見せてくれた。(京都新聞「ダンス批評」、2002613)


ヒュン・ヘア・バン

韓国のヒュン・ヘア・バン「Flashback」では、シモ手で赤い紙片が落下し、やや大柄な女が顔の写真を一列に並べていく。まず言っておかなければならないが、小さな回転とダイナミックな動きの組み合せが面白く目が離せない、四肢が長いので足上げがひじょうに美しいなど、動きがひじょうに鮮やかだった。

作品のテーマとするところは、やや汲み取りにくいが、まず顔(自分の顔だったようだ)を何枚も並べているところから、おそらく自己言及が大きなテーマになっている。落下する紙片は砂時計のように、時間の流れや堆積を象徴しているだろう。途中で、左右に分けた髪を後ろにくくったのは、少女としての時間をあらわすもののように見えた。時折写真の一枚を口にくわえてみたりしたのは、時間の堆積や今こうあることについての当惑のような思いをあらわしていたのかもしれない。プログラムに「行きずりの時間の真ん中で、私はいつのまにか、30歳になっていた」と書かれているように、30歳という一つの節目(多くの女性にとってはより感慨深いのだろう)を迎えての当惑や仕切り直しやといった思いを抱いて、ラストで裾をつまんで爪先歩きをしていたのは、これからの時間を歩いていく歩幅やスタイルを実に的確に見せていたように思えた。

アジア・コンテンポラリー・ダンス・フェスティバル Aグループ 2001.10


平戸健司の「fractures in my frame」は、首の左右の動きや身体各所のストレッチが、動きのカタログのようなところについては面白いと思った。河名健次、田保知里のダンスカンパニー・カレイドスコープReflection」(演出・振付=二見一幸)は、けっこう長いユニゾンが魅力的に展開する作品だと思ったが、動きを意識的にセーブしているのか、ドライブ感はない。そういう温度の作品であることを狙っているのかもしれないが、身体からアウラのようなものが出てこないことについて、何か格別の考えがあるのだろうか。(ダンス・ショーケース(パフォーマンス・アート・メッセin大阪2001731日 グランキューブ大阪)


 フレイ・ファウスト

ONE BUBBLE」「ALONE (TOGETHER) AT LASTInternational Contemporary Dance Session "Edge 2" 200158Art Complex 1928

とにかく身体の動きだけでため息をつかせることができるようなダンサーで、前者がややエスニックでコンセプチュアルだったのに対し、後者は動きの見本帖のような体裁で、ただただ動きに目を奪われているだけでよかった。前者で面白かったのは、ブラックライトに映える衣裳や絶えず呟かれている数か国語の言葉といった仕掛けで、言葉のリズムと身体の躍動が絶妙に響き合っていた。後者で特に強調されたのは、身体の回転の軸が際限なく螺旋を描きながら移動していくような動きである。関節がないかと思われるような柔らかな動き、プロペラみたいな回転、と印象に残る動きは数々あるが、それが終始クールに踊られるのには、感嘆した。


「第11回兵庫のまつり ふれあいの祭典 '99洋舞フェスティバル あれから5年」

 兵庫県洋舞家協会等が主催する「'99洋舞フェスティバル」は、「あれから5年」と題して、クラシック・バレエの「エナジー21」(振付=田中俊行)、モダン・バレエにタンゴやフラメンコを織り混ぜた「ルミナリエの光の下で」(振付=江川のぶ子)、モダン・ダンスにクラシック・バレエや日舞の俊英を組み込み、雅楽の生演奏を取り入れるなど様々な要素を融合させた「空と海と山の間に」(振付=藤田佳代)の三作品を上演した。

 いずれも直接的に阪神・淡路大震災を描かなかったことで、かえって客観性を持ち、祈りとしての意義を強めた。前二者では、溌剌と動く身体がこの地域の人々のこの歳月の懸命な姿につながり、それが多くの人々への鎮魂の回路を開いたといえよう。また「空と……」は、より大きな視野から、神戸を取り巻く自然と歴史をふまえて、戦災と震災に傷つきながらも多様な魅力を持ち続けるこの街の現在をいとおしむものとなった。

 「ルミナリエ……」では、太田由利と山本隆之のデュエットの深い感情表現でうっとりさせ、そのバックにダンサーが群衆の形でバラバラと入ってきたかと思うと、一列になって前に迫ってくるといった、動きと空間構成のメリハリが美しかった。群衆が中央に固まったところへルミナリエを模した照明が降りてきた時には、本当に1995年のルミナリエの感動がよみがえり、目頭が熱くなった。

 「空と……」ではボランティアの高校生二七人の懸命な身体がまず目に焼きついた。この子たちにとってこの五年間は、どのような歳月だったのだろうかという思いが、自分にも照射する。全体を通じて、あくまで静かで禁欲的で、形を重視したゆるやかな動きの連なりが、あふれようとするものをとどめるようで、心にしみた。(19991114日 神戸国際会館こくさいホール。音楽之友社「Ballet」掲載)


 藤田佳代舞踊研究所

主宰者 藤田佳代 1952年、法喜聖二舞踊研究所にてモダンダンスを始める。
1977
78年ロンドン、ロサンゼルスへ留学後、1978年に藤田佳代舞踊研究所設立。
同年、第1回発表会を開催し、以降毎年開催。1982年、第1回藤田佳代作品展(リサイタル)を開催し、
以降3年ごとに定期開催。このほか、創作実験劇場(自主公演)、県芸術祭、ふれあいの祭典、
大但馬展など、独創的な振付、演出で活躍中。1968年、第1回サンヨー新人賞、
1983
年、ブルーメール賞受賞。くすのきステージ 創作実験劇場 85日 兵庫県民小劇場

 藤田佳代舞踊研究所では、多くの若手が発表会や個別の公演で新作を発表し、多くの実を結んでいる。また、もちろん藤田自身、毎年のように意欲的な試みを世に問い、特に群舞の処理で独特の工夫を重ねてきたように思う。

 彼女たちの作品の多くは、上半身の緩やかで淀みのないユニゾンに特色があって、禁欲的と思えるほど、すべての動きがコントロールの下に置かれている。たとえば「鼓動再開」(作舞=菊本千永)という作品は、臓器移植によって再び鼓動が始まるというドラマをテーマとしたものだという。冒頭の蹲居からの緩やかな上体の動きをはじめ、前半の覚悟や意気込みのこもった重みのある動きはそれとしてよかったが、音楽が軽快なテンポを得た後も動きのトーンがあまり変わらないように見えたのは、作品の見せ方、メリハリのつけ方として損をしているように思えた。動きに思いがこもっているのはよくわかるが、動きが思いを振り切るのも見たい。

 バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータによる「Yumiko Hana」という作品は、1曲おきに登場する板垣祐三子のソロの身体を見せるための作品で、実際身体の微妙なフェイズの移りや、弾けるようなきらめきが誠に印象的であった。たとえば勢いよいリリースを見せるとか、いい意味でのエンターテインメント性を加えれば、作品として見る者を離さない、魅力的なものになったと思う。寺井美津子、菊本の作品が面白く、北上愛子というダンサーもいい動きをしていた。

 寺井の作舞になる「暗い森」は4人のダンサーによる作品だったが、中では動きが大きく、人の集散が面白かった。

藤田佳代がスタンダードの名曲を使って、紗幕の向こうの人々の流れで時間の経過を表わし、青年(菊本)が恋を経て道化師になるというドラマを綴った「時の変容」は、菊本の動きを見せるという意味では十分その役割を果たしたが、彼女自身の動きにも、金沢景子とのデュエットにも、振付を超え出た粘りのようなものが感じられず、少し物足りなかった。人々の流れは、紗幕の向こうだから止むを得ないとしても平面的で、テンポにもあまり変化がなく、単調に見えた。菊本の衣裳だが、白いパンツは細身にしたほうが美しく見えたと思う。


 藤野直美がDance Circus1999927日)で踊ったのだが、動きにあとから形容詞がついていくタイプの作品で、踊ることの本質を踏まえているように思えた。動きの経過にある形も、結果としての形も、共に大切にいとおしんでいるように思え、そういう時間の連なりが、入りやすい世界を作りえた。この日のDance Circusは、レベルも高く、バラエティも豊かで、楽しかった。(PAN PRESS


 フルカワトシマサ

'59年大阪生まれ。20代半ばよりソロ・パフォーマンス活動を始め、各地のアート・フェスティバル等に参加。身体を重視した即興性の強いパフォーマンスを展開、好評を得る。'92年、代表作「Walking Step」を持ってヨーロッパ各地を転戦。'94年より「Walking Step」をベースにしたコラボレーションワーク「Walking Steps」を開始。古書店クライン文庫を経営。

 フルカワトシマサというパフォーマーが久しぶりに立ったステージ(19991026日、OMS)は、やはり無茶なものだった。奥さんが次男を出産したシーンのビデオを流した後で、擬娩とでもいうのだろうか、彼が自ら出産をシミュレート、赤と緑の塗料まみれになったまま友人と携帯電話で会話する、というもの。クライマックスはやはり擬娩のシーンで、大きなビニール袋の中に入り、赤と緑の塗料を入れたガラス瓶を叩き合せて割って全身を塗料でもみ、股間からダンシングベイビーの人形を出すという、言ってみればベタな構成なのだが、一つにはその題材の衝撃力、もう一つにはフルカワのそのことに対する祈りのような思いが切実に伝わってきて(というとフルカワは照れるだろうが)、素直に感動した。彼のパフォーマーとしてのよさは、このようなストレートな昂ぶりを臆面もなく出せることにある。

 パフォーマンスではなくハプニングと言ったとき、そこで何かが起きる(happen)ことの一回性が、いっそう貴いものに思われる。ぼくたちの目の前にナマで行われることは、すべて事態の生起という意味でハプニングと呼んでいいだろう。(PAN PRESS)

 そのような姿を最近目の前にしたことがあったことを思いだした。フルカワトシマサのパフォーマンスプロジェクト「Walking Steps」(7月12日、扇町ミュージアムスクエア)だ。彼がここでただ歩き続けるだけだということは、ほとんど皆が知っている。しかし彼はなかなか歩き出さない。照明も音楽も、すっかり用意ができているのに、フルカワはじっとうつむき凍っているようだった。

 人がある行為を始めるためには、いったいどのような契機が必要なのだろうか。それをフルカワは、たった一人のパフォーマンスにおいて自分で見つけなければならない。あの光の中で(照明=岩村原太)時間にわが身を沿わせ、その時間を自分が進ませるものとして第一歩を踏み出すために何を探っているのかと、見る者をはらはらさせる数瞬だった。水を張ったステージをぼくたちは取り囲んでいた。フルカワは時折足の指先を小さく動かして、水面に波紋を与えていた。その水紋はライトに反射され、壁や天井に美しい波紋を投げた。神経質に細かい動きを見せる彼は、とても無防備な、不安げにも見えるような表情で、観客を何度かぐるっと見つめたりした。高橋睦郎の詩集『動詞U』に「立っているものが悲劇的に立っているなら、腰掛ける者も悲劇的に腰掛けているのでなければならぬ。歩き出す者も悲劇的に……以下同じ」という断章があるのを思い出した。これから始まる何ものかに耐えているような姿勢だったように思う。

 いきなりの右足だった。いきなり右足を振りかぶる(足を振りかぶるというのはおかしいのだけれど)ように高く上げると、はずみをつけて渾身の力で水面にたたきつけた。大きなしぶきが客席まで跳ね上げられ、ようやく世界は動きを与えられたのだ。見ていてふと、なんだかとてつもないものに立ち会ってしまっているという、恐れのようなものにとらわれた。フルカワの足が地を打つこと、それは地を鎮める作業である。詩が舞踊であるのなら、この歩行は存在を超えるものに通ずることのできる、唯一の祈りの道筋だ。歩くという、飾りのない行為を提示することで、フルカワは人間の身体の動きのはじまりに遡る。そこには劇もなければ美もない。身体と存在がナマに曝されただけのことだ。技術的にはフルカワとぼくらを隔てるものは何もない。だからこそいっそう、ぼくたちはぼくたち自身のはじまりをここに見ることができたわけで、それがぼくの感じた恐れのようなものだったのだと思っている。

 光もそうだった。岩村の創り出す光がステージの水面を反射させたり、はじき出されたしぶきをきらめかせたりする美しさを、驚きをもって眺めた。光が実体の反射としてではなく、ものそのものとしてうねり、量感が移動するのが見えたようだ。フルカワの行為が身体や存在の初源を見せたように、岩村のライティング・ワークは光の物質性を立ちのぼらせることによって、このステージを何人かのアーティストのではなく、身体と光のコラボレーションとすることができた。                   (JAMCi '95.10


 パル・フレナック

36日には、パル・フレナックの「泉」という不思議な作品を観た(難波・トリイホール)。存在が空間や性や様々なものによって拘束されていることを直接的に、しかも美しく見せる、非常にスリリングな時間だった。


 Poety Party

 四月七日、ライブスポット・RAG(京都)で Poety Party の「Good Morning SOL」を見る。模水、野口千佳、鈴木凛一のユニットに、松尾泰伸(kb)、石野武夫(g)のステージだった。まず音楽についてふれておくが、キーボードは構築するものだが、ギターは浮遊するものなのだということがわかった。キーボードの構築するオーロラのようなコードの流れに、ギターがどのように和し、また離れていくかという点で、ひじょうにスリリングな演奏だったといえる。

 前々号のプレビューにもあったように、ぬいぐるみを着て演じられる奇妙なショーだ。もっとも、ぬいぐるみといっても縛られた身体を思わせるもので、不自然なほどに強調された突出や余剰な機能が目障りな徴しとして見えてしまう。強調された乳房、人工肛門のような突起、ヘルニア状に突出したヴァギナなど、故意なあからさまさが見て取れ、けっして愉快ではない。そのような倒錯した擬似身体によって、愛のはじまりや感情の開花を思わせるようなシーンが展開されていく。筋書のようなものは明らかにあって、愛になりかけの、またはなりそこねた関係性について展開されているようだ。コスチュームのクリーム色やピンクを基調とした甘ったるさ、演者へのパービー、パリリオ、ピンクマンモスという命名など、ファンシーに見せかけたグロテスクが強烈だ。

何といってもここで見ておかなければならないのは、彼らがどのような手段によって身体の徴しを獲得しようとしているかだ。図式的だと言われるかも知れないが、これまで脱ぐこと、削ぎ落とすこと、絞り込むことでしか身体表現はその聖性を獲得しえなかったのではないか? それに対して彼らは、ぬいぐるみを着込むことで向こう側に行こうとしている。これはややもすると軽薄さや滑稽さに倒れ込みかねない危うさをあえて引き受けながら、聖性を着脱可能または外付けの部品としてしまうという、大きな冒険であった。(「JAMCi19957月号から)


HOST UNKNOWN metal brain2002121日 トリイホール

宮北裕美が主宰するユニットで、ダンスだけではなく音、映像、光の総合体を指向していると思われる。劇場のステージというのは、どうしても闇からスタートしなければならない。闇に光を与えるのが照明であり、無音に音を、静に動を与えるのがステージワークであるということになる。やや唐突にそんなことを思ったのは、宮北が提示する世界が、いつも強いオブセッションを基底に置いて構築された美意識の世界であるように思えるからだ。宮北の小さく細い身体は、実にそのような世界をあらわすのにふさわしい。

まず風のような音に、宮北の左腕が力を込めてゆっくりと上げられる。佶屈していく。痛々しい、そう思わせる、宮北の身体である。ロボットのようでありながら、それなりにスムーズに動いていたかと思うと、硬直し、アンコントロラブルになり、足がもつれる。たわむことのない身体だが、ロボットのような動きを取らないと、スムーズに動けない、という身体性があるとすれば、それはとても神経症的だということではないか。ここで宮北は、まるで不良美少年のような相貌で笑いながら、そういう危うい身体性を発現している。

柔らかな硬直、という言葉が浮かぶ。リリースしないスパイラルな動き。それも一つの矛盾するようなあり方だ。螺旋状に回転するのに、遠心力を受けない、生じない。それは何か、自らの内にひじょうに頑なな芯のような種子を抱え持ってしまっているからとしかいいようがない。外界からどのような力が加えられても、決して影響されることがない強さを感じさせる。しかしこの強さというのは、外に向かっていく力ではなくて、ただ自身を守るためだけにあるような力であるようにも思われる。

この、あくまでリリースしない身体について、共演の黒子さなえと対照を形づくるのではないかと思われたが、黒子も意外に、ふだんよりはリリースを強調しない。時に四肢の各々を振り子のようにリズミカルに揺らしたり、左手を左膝の裏に当てて奇妙な激しい動きをとったりするが、動きを開放しているというよりも、むしろ重力による動きであると感じさせるのが、ふだんとは大きく違っていた。

あるシーンでは、黒子が砂漠の女のようなベールをかぶって出てきて、聖女に通じるような雰囲気を醸し出す。肘から先を動かし、後ろに反り、大きくストロークするかと思わせて、そうしないのが、今回の黒子のいつもと違うところである。曲も「アベ・マリア」になって動きが大きくなるが、胸に何かショックを受けたように足を抱え込み、徐々に回転を速める。すると、これも頭から布をかぶった宮北が少年の足どりで出てきて、黒子は水草のように腰から崩れそうになる。宮北がかぶっていた布を取ると、頭だけ戦闘帽のように覆っていて、苦しそうに耳を押さえ、手に持った布をバサッと捨てて、今度は微笑む。カミ手から黒子が布にくるまって物体のようにゴロゴロと転がってくる。宮北は目を閉じて佇立している。ここに至って、すべてのことが宮北の夢想であったような、あるいは宮北によってぼくたち観る者が見せられた夢であったような気になる。

予言者か行者のようないでたちで山下残が、といっても黒づくめで誰とはわからないのだが、半歩ずつゆっくり動く、というシーンもあった。どこかRPGにでもある神話か伝説のような雰囲気も帯びている。全体からの連なりはよくわからないが。じっさい、断片的でありながら、全体の色調は統一されていた。それもまた、夢のかけらであるような気配を増幅させるものだった。

黒子が足を滑らせたかのように落ちかけると、宮北も帽子を脱いで落ちかけ、黒子の背中に向かって半歩ずつ大きなストロークをしながら近づき、二人は向き合う。宮北が少し微笑んでいて、何だか幸福な感じがする。二人はシンメトリカルに近い動きから、互いの足を持つ形で屈み、重なる。ここで「出会った」という感覚が起きる。黒子のかざした手に連れて宮北が動くところでは、その触れ合わないままのシンクロニシティが強く印象的である。

このように一つ一つのシークエンスを追いながら、それでもなかなか全体に一貫して流れるテーマのようなものを見つけることは難しく思える。それぞれの場面には思わせぶりなタイトルがつけられており、改めてそれを見れば、なんとなくそれらしいテーマが見つかるような気がしないでもないが、それよりもやはり印象に残るのは、長い夢を見ていたような感覚で、それというのも、光も動きも音も、夢の中独特の遠近を定め難い、見ている自分がその中にいるのか外にいるのかわからないような不思議な感覚を成立させることができていたからではないだろうか。あえてこじつければ、神経索のなかを流れる物質が感覚とか感情とかいうものの淵源であるとして、その物質だけを取り出しても感覚とか感情とかは得られない、しかしそこに微かに予感され、残り香のように漂うものがあるとすれば、それをいとおしみたい、そのようなことを思わせる、brainというタイトルであった。


 Popol Vuh

1997318日、「Popol_vuhの目次」を島之内教会で。静かな森でかくれんぼか鬼ごっこをしているような、やさしい雰囲気。しかしその「ごっこ」を演じる二人の動きは孤立していて、関係性を形作ろうとしないように見える。その孤立が何を生み出そうとしているのか見えてこないもどかしさ。二人が同時に舞台に立てば、否応なく二者の間に関係性が生じると思うが、それが「否応なさ」にとどまっていていいのか?

 初日だったせいか、ちょっと腕が縮んでいる感じで残念。動きがちょっと萎縮している感じ。大きく腕を動かして空気を動かさなければいけないときに、風が起きない。ちょっとダル。その後で、両手に靴を持って動いたときに、靴の重みで腕に遠心力のような効果が起きて、動きがシャープになったのは、ちょっと皮肉。

 全体的に、動きの展開に徹底性が見られず、からだを動かすということの意味・方向性が絞られていない感じで、ちょっと期待はずれ。次の展開に期待したい。(劇場日記から)


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