劇団態変 竹の内淳 

竹ち代毬也  武元賀寿子 ハイディ・S.ダーニング ブレット・ダフィ DAY DANCE ディニオス 藤堂悠貴子 友恵しづね(トモエ静嶺)と白桃房


竹ち代毬也インタビュー(抜粋)

 昨年、ENTENというユニットが伊丹のアイホールで「Q」という公演を打った。構成が吉岡彩会、振付が竹ち代毬也、生音のライブなスリルとダンサーたちの躍動感がまぶしかった。中でも竹ち代の無表情で身を伏せて獣のように疾走する姿が印象的に残っている。ENTENが、今度は東京で公演すると聞いて、竹ち代に話を聞いた。まず、そんな姿のベースとなる、どんな身体訓練をやっているのか、というところから。

竹ち代(以下、竹) ぼくはあんまり……

− えっ?

竹 あんまり好きじゃなくって。毎日腕立てとか走ったりとか、ぼく、そんなんやったことなくて。

− そのわりに、っていうとあれですけど、よく動きますよね。

竹 得意なとこっていうのがあって、それ以外はあんまり動かへん(笑)。そうやってからだを作って、筋肉つけたり、きれいなライン作ってとかって、そういうことよりは、いつも自分がいい状態でいれる、気持ち的なほうが大事なんちゃうんかなあって思うんです。痩せたからって、いいダンサーになれるわけじゃないし。こないだ見たインドネシアのダンサーの人でも、けっこうポチャッとしてたでしょ。腹なんかボーンって。でもすごいきれいな動きしはるし、筋肉も柔らかい。それってただの見た目じゃなくって、その人の生き方とか、その人のいい状態をどれだけキープできるかっていうことなんやないかなぁって。

 ダンスを始める前は、アーティストとして大画面の抽象的な作品を作っていたという。桂勘のユニットに美術やビデオの担当として入ったのが、いつのまにか身体表現のライブ感に引かれて、舞台の上に立つ側に。

− ダンスの作品を作っていく時に、それまで絵を書いてらしたこととの関係はありますかね。

竹 うん、まずビジュアル的なことが頭にスコーンと出てきて、それの前後をつけたりとか。たとえば女の人の背中が、こういうふうに動くと面白いかな、って。そういうのがとっかかりで、じゃあその前後はどうしようかっていう作り方がけっこう多くって、ホントにイメージの世界みたい。あんまりテーマとか内容から入ってないから、理屈っていうとあれやけど、何を伝えたいというよりは、フォルムの面白さとか、そこから出てくる感情的なものとかで作り上げていくっていう感じかなぁ。

− 今度、東京でスフィアメックスのフリンジに出られますね。どんなことをされるんでしょうか。

竹 あれはですね、「Q」では、あらかじめ「こういう作品を作ってみよう」とか「こういう音があるから、こういう動きを考えた」というような感じやったんですけど、今度は練習の中から面白い動きを見つけて、そこからダンサーを動かしてみようと。割とダンサーとの共同作業みたいな形ですね。

 他者であるダンサーとの関係性の中で作品も生み出され、観客との関係によって舞台の空間も作り出される。そういう人との関わりをベースにしていたいから、ソロ公演にはあまり興味がないと言っていたのも、面白い。ENTENでも、主宰者である吉岡彩会らとの補完的な共同制作のような関係から生み出されているという。関係性を大切にする中から、自分でも想像がつかないようなものが出てくる、そんな「次回作」を楽しみにしよう。(「劇の宇宙」掲載)



流れる美しさに楔を打つ−武元賀寿子と梅津和時

  年末から、仕事の都合でダンスを見に行けない日々が続いていた。ようやく見ることができた武元賀寿子と梅津和時(サックス)のステージ「Song of Memory:GARDEN-Niwa-」(199923日、TORII HALL)のことを、数日後の日曜日、山下残の楽しい公演の後、続いて遅れて入った竹ノ内淳と別所誠洋との絶妙のコラボレーションを見終わって、京阪七条までの道すがら、あるダンサーと話していた。何日かおいて、よかったダンスの話をするのは、本当に楽しい。

まず武元の身体の安定感のある美しさが印象に残っている。時折見せたアラベスクのようなポーズに揺れがないのには驚いた。そんな淀みのない美しい動きが、ただそれだけにとどまらない刺激的な舞台になったのは、設定や構成の巧さと梅津和時の存在だった。

この公演の時間の流れに、最も強く楔を打つアクセントとなったのは、実は梅津の存在であった。冒頭、サックスのケースを片手に「永遠の旅行者」のような出立ちで現われ、楽器を組み立てるとまたバラして去っていき、絶妙のエアーポケットのような時空を作った。このように冒頭にエアーポケットを作ってしまうような構成は、希有だといえるだろう。意表を突かれたぼくたちは、初めにちょっとリラックスすると同時に、一種独特な気分に染められてこの作品に入り込むことになったわけだ。その後も梅津は、第一には何種類ものサックスやバスクラリネットの音の重みのある艶によって、第二にはふとした折に見せる軽やかなステップによって、第三には何とはなしに空気を柔らかくする風貌によって、作品の重要な役割を担った。

小道具として有効に作用したのは、透明なアクリル板である。それは水平になると泉になり、梅津が音を奏でるためのテリトリーとなり、また垂直になると鏡になり、武元が抱きかかえてデュエットを踊ると、愛の対象にもなった。透過もし、反射もする。その多義性が武元の確かな身体に多くの表情を与えた。

 武元の現われは、ちょっと掴みにくかった。ただただ後方に進んでいくだけの動きを、延々と続けた。時間が逆回しされているようにも思え、何かにつかれた小動物のようにも思えた。そのように、彼女はちょっと説明しにくい魅力を持った複雑な動きをする。仰向けになって腕と足で話しをしているようだったり、裾をからげて足を奇妙に出し入れするナントカ節のような面白い動きをしたり。

しかし、その種の細かな動きの面白さが、全体的にはあまりの安定した美しさの前に霞んでしまうのだ。ぼくはこの公演を見ながら「きれいすぎて、」とメモしてしまっている。先に述べた複雑な独特な動きは、もしかしたら武元の動きが美しすぎて流れてしまうのを押しとどめようとするものなのかもしれない。美しく流れてしまう時間をささくれ立たせるノイズの役割を、細部から与えようとしているのかもしれない。

 「よく動く身体」に時折ぼくは物足りなさを感じることがある。きっとダンサー自身もそれを自覚し、自らの動きに楔を打ち込むために様々に工夫を凝らすのではないだろうか。そうだとしたら、この公演は、とてもうまい具合に成功していたといえる。

PAN PRESS


ハイディ・S.ダーニング

アルティ・ブヨウ・フェスティバル2002 29,10

9日の最初はハイディ・S.ダーニング。まず幕が上がると正座している白い衣裳の加藤文子の姿がひじょうに美しくて感動を覚える。突き出されたお尻から背中の曲線、前のめりになる角度の的確さなど、人の身体の造る形の微妙さに感心することができた。右腕を投げるように動かすと、黒い衣裳のハイディの後ろ姿がそこにあり、二人の腕の動きの対比−曲線で空間を包み込む動きと直線で空間を切断し支配する動き−が鮮やかな対比を見せ、身体の動きによって空間がどのようなありようを見せうるかということの、ひじょうに印象的なショットである。身体の直線と曲線のメリハリの利かせ方が効果的だった。

二人の距離と遠近と視線の交差、滑らかな動きから、互いをいとおしみ、また互いの現存在を超えるようなものへの思いが立ちのぼってくるように感じられた。また文子の動きからは、傍らに何か大きな存在−超越的なものがあるということを明確に意識しているような敬謙な姿勢が感じられた。

舞台の2ヶ所に置かれた石のオブジェが、最初から気になっていたのだが、いよいよ墓石か神が降りてくる依り代のように見えてくる。文子がふいに立ち、驚いたようにハイディがシモ手奥に去って行くのを見送る。あぁそうか、彼女は向こう側の人だったのか、と突然腑に落ちるような気がした。一度ならず振り向き、やがてスーと戻ってくるハイディと文子が、柔らかく絡んで、右手がユニゾンで美しくストロー クする。どこかで現実と非現実の時間軸が交差した、そんな印象の、夢幻のような作品だった。

ぼくはハイディの作品をそう多くは観ていないが、彼女の特徴のひとつに、対話ということが挙げられるのではないか。もちろん、それは向こう側、彼岸との対話ということも含まれる。前回(一昨年)のアルティ・ブヨウ・フェスティバルで発表された作品は、阪神大震災で亡くなった母を招き寄せる、強く美しい作品だった。母がフラメンコ・ダンサーだったことと、ハイディがフラメンコの振りを踊ることには、ハイディが母をなぞること、ハイディが母になること、母が再びこの世に現われること、その他さまざまな相での感応があると思われたが、ここで絶対的に現われるのは、彼岸と此岸の懸隔であって、そこに生まれる存在の対話的な提示であったといえよう。

幕間やアフタートークで聞いたところ、この作品ははたして二人の16編の連詩(詩の往復書簡形式)からできたものだという。その中に出てきたいくつかのイメージから構成されたものだとのこと。二人の言葉によるコミュニケーションから、あるいはコミュニケーションの溝から、ビデオの往復による動きのやりとりをも含めて、それに要した時間と空間が二人のあらゆる意味での距離の遠近となって、作品の空間の広がりとなっていったのだと感じ入った。

何かを食べるようなしぐさのところは、トマトだったのよとか、そういう話を聞きながら(ぼくは柿かと思っていたし、高松平蔵さんは雪だと思っていたらしい。なんでもいいのよ、何か食べてるんだとわかれば、とはハイディの言である)、ちょっと西脇順三郎の『旅人かへらず』の詩のような諧謔を感じたりした。


ブレット・ダフィ

続くオーストラリアのブレット・ダフィ「WARD:HUMAN MEAT PROCESSING WORKS」は、大きな身体(背がすごく高い)、サブタイトルからも予想されるひじょうにオブセッショナルな要素をちりばめた映像、ガスマスクなどほとんど錯誤的とも思えるような衣裳、シャープな動き、によってキリキリと厳しい作品だった。特に4人の女に四肢をもてあそぶように掴まれ、髪を刈られている、というように、映像に展開される倒錯的で嗜虐的なシーンが、作品の空気を色濃く仕上げた。

まず動きに関して言えば、右足にだけ高下駄のようなものを履いているために奇妙な跛行の歩き方になるのが、高さを出す以上にアンバランスさを強調するという効果を強く出していたのが、印象に残る。腕も脚もひじょうに長く大きく、滑らかかつダイナミックに動くので、最前列で見ていたせいもあろうが強い威圧感があった。全身を打ちつけるような昏倒も、もちろん大きく衝撃的なのだが、身体が柔らかいためか、意外に破壊的なほどではない。むしろ倒れる身体の線がピンとまっすぐに張られて美しいのが印象に残っている。

終盤では、演劇(朗読?)の1シーンの映像、頭に2つのボールのようなものをつけた不思議な衣裳、と意味不明な要素が提出されるが、なぜかこちらの情緒の深いところに強く訴えてくる。この作品もまた、全体にふまえられている背景を知らない/理解できないために、作品の魅力の大部分を感受することが出来なかったようなもどかしさと共に、何かわからないけれども大きなものに出会えた、という満足感が残っている。(2001.10 アジア・コンテンポラリー・ダンス・フェスティバル TORIIホール)


DAY dance

「堕天」 20001021日 KAVC

 マキノエミを中心とするユニットで、昨秋の公演の一部を今年初めのロリーナ・ニクラスによるダンス・クリニックとワークショップ(アイホール)へ出したのを見ていた。ぼくは残念ながらその初日しか見ていないのだが、クリニックとワークショップの結果、最終日にはかなり作品が変わったと、半ば伝説のように耳にしていた。

 開演前からステージには既に3人のダンサーが直立していて(ひじょうにゆっくりと動いていたことは、しばらくしてわかるのだが)、開演前にここまでの緊張感を漂わせてしまうと大変だなと心配にさえなった。

 実際、作品の冒頭では無音であることで緊張の度を増し、歩くという行為でさえもひじょうに危なっかしい、成立困難な動きであるように思えた。そこへピアノでバッハの協奏曲が入るのだが、音が入っても緊張は持続されて爪先立って歩く不安定さが増幅したのには驚いた。半眼でどこか舞踏に似たような表情でのその動きは、人間の身体というものが正しく中心を取ろうとしながらも、決して取ることができないゆえに揺れているというような、必然的な不安定さだった。

 動きが大きくなってにぎやかになったなと思ったら、またスッと元の場所に帰ってしまう。そのことについて、当日の資料では「自分の居場所から、踏み出すこと。」と書きつつ、つまり居場所を定めていることは、舞台の上の小さな正方形の芝生のような装置からも明らかだった。興味深いのは、場所を定め、そこに根を生やした植物のように立つことで、そこから離れることにひじょうに大きな意味やきっかけが必要になってしまうことだ。それをやはり資料では「椿のおちるように。」と記していて、つまり整然とした理由や原因はなく、ただその時が来れば椿の花がポトリと落ちるように、というのだろう。

 3人のダンサーが1つの場所に入って、ふと出て行く。その「ふと」というタイミングが、ひじょうに重要なのではないか。その後3人の身体は、たとえばU字という同じ形を創って組み合せることで、見たこともないような多様なフォルムを定めていく。この時、組み合わせのキーとなっているのは、おそらくそれぞれの重心だっただろう。落ちる時を探ることと重心を測ることは、おそらく近接している。その慎重な測定(というような言葉が似合うように思うのだが)が、ダンスという形になる。

 植物であることが、場所を限定するものであることは容易に想像できたが、落下するものであるということは、思いつかなかった。落下というドラマチックでダイナミックな動きは、動物に特有のものであるように思っていたが、実は倒れる、落ちる、弾けるといった大きな動きは、植物のほうにこそ日常的なものだったのかもしれない。その動きの静けさと大きさを共に見せるためには、まことに的確な喩であった。

 そして、一見の体温の低さもまた特徴的ではないか。一見の静かさの中にそのような激しさが確実に流れている。容易にはクライマックスを迎えない彼女たちのダンスする身体、実は内部ではすさまじいばかりのスピードで液体が流れている。


ダンスカンパニー・ディニオス

2人のダンサーによる舞踊展〜ディニオスダンスコンサート

 1998612日 於・京都府立文化芸術会館。渡辺タカシ率いるダンスカンパニー・ディニオスが江波未有、深海愛を中心に置いて、3つの作品を提出。

 最初の作品「われらエロスの児なり」(それにしてもすごいタイトルだ)は、おそらくカンパニーの中堅どころとされているメンバー4人による群舞。個別の苦悶が、時折のシンクロで救われるというようなアクセントの与え方で、ダンサーらの動きも緩むところがなく、流れるような動きの連続で、単調になりかねない。それを辛うじて解決するのが、ダンサーの身体そのものと、それをまた強調するような振付による煽情性だと気づいた。そういう、非常に依自性の高い表現が続き、告白すると、ぼくはダンサーたちの衣装によっていっそう強調された(のだと思うが)豊かな胸や腰の張りに注目する=させられることで時間をやり過ごしていた。女性にはどんなふうに見えたのだろうか。隣で見ていたMさんが「パンパンやね。昔は私もあんなんやったんやわ」と言っていたが。ある意味では渡辺の強調したい意図のとおりだったかも知れない。

 それがいったんいい意味で途切れたのは、音楽(石井真木)のバイオリンの低音が入るところで全員が動きを止めて耳をそばだて何かを探すフリになったところだ。ここでこの作品に初めて外部が存在することがわかったのだ。しかし残念なことに、この印象的なシーンも、音楽に従って何度も何度も繰り返されるに至って、くどさから効果としてはゼロになってしまったのだが。

 ぼくが残念に思ったのは、群舞でエロスをテーマにするのであれば、関係性を描いてほしかったということだが、それ以上に、そんなテーマ批評をしなければいけないダンスというのは、一体何なんだろう、ということ。ダンサーたちの動きは、特に身体の上下の切り返しが見事で、よく踊れていた。

 二つ目の作品が「葬い花〜中城ふみ子歌集<乳房喪失>より」というもので、深海愛のダンスを中心に、朗読や歌を取り入れた、渡辺のおそらくは力作。中城の伝記・短歌の朗読に、弦楽、ダンスがかぶさる。いや、順序として本当は逆だろう。しかし、言葉は強い。どうしても耳が言葉を聞いてしまう。中城というどうにもドラマティックな人生を言葉は辿っていくのだから、それを聞いて理解したくなる欲求は抑えられない。だから、ダンスがなくても成立する舞台、のように思えてしまうのだ。中城の歌に傾く意識と、深海のダンスへの意識が分裂する。

 まず気になったのは、朗読される歌や伝記の落ち着いたテンポと、ダンスのスピードがちょっと合わないかな、ということだった。言葉の圧倒的な優越性にもかかわらず、深海の身体には存在感があり、動きも鋭い。それが妙に突出して見えたのだ。徐々に時が経つにつれてこちらの中城像が結ばれていくにしたがって、深海の動きのスピードと中城像の動きが合ってきたように思って安心したが、だからこそ序盤では、導入部分として緩やかさから立ち上げてほしかったと思う。

 それは言葉を変えれば、全体に一本調子で押し切る作品だったということでもある。中城の人生は、たしかに悲劇的なものではあったが、それを苦悶やら自責やらの悲劇一色で塗り込めてしまったことで、単調で希望のない作品になってしまったのではないだろうか。短歌作品が歌壇で認められること、いくつかの恋、といったことは、一瞬のうちに過ぎ去るものであったとしても、そのさなかにあっては純粋で至上の喜びであったはずだし、彼女の苦悶自身をすくい上げていく視点は持てなかったものか。

 ぼくは中城の文学や人生をどう解釈するかということを第一に問題にしているのではないつもりだ。作品としての時間的な退屈さもさることながら、そうして複数の視点を持っていれば、深海の動きがもっと多様なものとして提出され、彼女の身体の豊かさを引き出し提示できたのではなかったかと、それを残念に思うのだ。深海の動きは、鋭く、スピードのある、激しいものだったが、その速度が終始同じで、ドラマのメリハリをダンサーの動きによって見せることがなかったのは惜しい。

 続いて、江波未有と、ロサンゼルスから来たジェーソン・パーソンズによる「Fの記録」。ステージの両サイドの椅子に二人が座っていて、床には黒いゴムボールが散乱。バックでは4台のディスプレイがゴルフや風景のビデオを流している。やがて予想される通り、二人はボールを転がし合いながら、動きに入っていく。江波の動きは、ダイナミックである一方、ブレーキがよく利いていて、素晴らしいと思う。ぼくがここでブレーキと呼ぶのは、鋭い速度のある動きの中に、残ろう、遅れようとする心の働きが見えるような動きのことだ。しなう、たわむ、というようなことで最もよく表われるのだろうが、本当にギギギッと、ストップモーションのように見えることがある。現実の時間を越え出る何かがあるのだと思う。

 それに比べるとジェーソンの動きはブレーキがなく、やや単調に思える。二人の動きはシンクロしたり離れたりと会話のように展開されるが、近づいてのデュエットはあまり面白くない。コンビネーションとして見るとき、かなり物足りないと感じた。

 この作品でもまた、バックのディスプレイに映るダンス群舞やアルプスの山々、時節柄サッカーのゴールシーンなどにずいぶん気を取られてしまって、二人のダンサーに集中することを妨げられた。これはある意味では面白い経験ではないことはない。これまでも、他のダンサーのラジオを流したり落語を流したりした作品で思ったことだが、観る者の意識の分裂自体を自ら相対化するというこのような体験は、理知的な意味で面白いし、分裂した両者が止揚されるようなことがあれば、本当にいいのかも知れない。しかしここではそのような止揚は求められていないようだ。両者は分裂したままでよいようだ。それがここでの多様性の提示ということなのかも知れないが、単なるバラバラさとそれをどう分かつのかが難しい。

全体に渡辺には、作品を作り上げていく上でのはっきりした手法があることは理解できたが、それがダンサーの魅力をより豊かに見せていくことに有効であるかどうか、あるいはそのことについて彼が意識しているのかどうかは、あまりはっきりと見えてこない。にもかかわらずダンサーたちはよく踊っているのだが、「よく踊れているダンス」というのは、一体褒め言葉なのかどうか。じゃあ、ぼくはダンスに何を求めているのか、という反問も含めて、ダンスの作品を成り立たせることそのものについて、考えさせられてしまった。


藤堂悠貴子

BODY MEDIA MIX LAB 環境のホモノイズシリーズ#15 Affordance

1998929日 於・バートンホール。ダンス=藤堂悠貴子。

 藤堂が以前、宮原幸人という名で踊っていた時に、神戸の「イカロスの森」というスペースで無音の即興を見たことがあった。それから何度か見るチャンスはあったが、彼女のアクシデントで公演が延期されたり、他の催しと重なってぼくが見に行けなかったりで、久々に彼女の身体に対面した。

 神戸では始めから補聴器を外し、無音の中で踊っていた。ぼくたちの耳には近所の雑踏やら観客の衣擦れの音やらが耳に入るが、彼女にはそれは感知されないのだろう。しかし、それ以外のものが感じられたり、聞こえるというのとはまた別種の感覚で感知されているのではないかという、ある種、神秘めいたものを見るような、悪く言えば好奇心、素直に言えば畏敬の念をもって、緊密な時間を共有した。

 今回は長谷川まひまひのサックス、コースケのベース(チェロ?)をバックに、結論から言えば彼女は途中から補聴器を外した。それを見てぼくたちは、動きが劇的に変わるのではないかと期待する。彼女の身体が沈黙の中に沈み込んでしまうのではないか。沈黙の彼方に去っていってしまうのではないか。動けなくなってしまうのではないか。あるいは本然に戻って、いきいきと動き始めるのか。……

 そういう、いくぶん自虐的に言って好奇の思い入れをあっさりかわすように、彼女は淡々と静かに時間を流していった。本を読む、本を閉じる、本を床に置く、その上に補聴器を置く、といったアクセントになる動きのほかには、ややじれったいほど動かない、特に身体がドライブする感覚の少ない、静かな時間が流れた。

 彼女の舞台について、彼女の聴覚がぼくたちとは違うらしいことをどの程度織り込んで見ていけばいいのか、まずそんな難問が突きつけられる。彼女の場合、自分の聴覚に難があるということを知ってもらった上で見せるようにしているようなので、あまり神経質になる必要はないのかも知れないが、「だからこのような動きなのだ」と短絡させてすべてを説明するというのでは、見る者の見識が問われようというものだ。しかし殊更にそれを除外して語ろうとするのも、かえって彼女の全体性から重要な一部分を剥落させることになる。

 いわゆる障害ということについて、いわゆる健常者であるぼくは、態変が指し示しているように、その人たちにそれがあることによって、世界を異なる角度から見ることができるということを感謝したい。「健常」であることを相対化し、ここからの世界の見え方を相対化するということで、ぼくとその人との差異は、ぼくにとって恵みである。念のために言い添えておくが、世界を違う角度から見せてくれることを恵みと言っているのであって、自分が「健常」であることをよかったと言っているのではない。

 ちょっと自分自身のことで考えてみよう。ぼくは小さいころから相当きつい吃音に悩まされてきたが、もしぼくがたとえば詩を朗読したとしたら、ある人は「連射される弾丸のようだ」とか「言葉の未生の吠え声」とかいって、この吃る音に強く感動するかもしれない。もちろんこの時、仮定のぼくは既に自分で「吃る朗読」を方法論として選び取り、それをさらすことを自分で決めているのだから、そこに悲惨はない、と自分では思えるだろう。

 この1時間足らずの時間について、シリーズの恒例になっている終演後の角正之のコメントで、「やさしい風景」という言葉が使われた。これには少なからず驚いた。角の口から、ダンスに対する一つの批評として「やさしい」という語が現れるというのは、予想していなかった。にもかかわらず、ぼくは角の「やさしい」という言葉に、瞬間的に深くうなずいていたのだった。なぜか。

 動かない時間について、ぼくたちはまず「緊張した」とか「張りつめた」とかいった言葉を貼り付けるのがお決まりと言っていい。こういうのを常套句と言って、ぼくのような消耗ライターが最も陥りやすい穴だ。そのような常套をすり抜けるようなものが、何か藤堂にはあったということだ。

 彼女は細く小さく、弱々しい感じで現われた。しかしどこかに、ある宗教的なたかまりのようなものを帯びているように感じられた。さりげない出立であったのに、短い時間の間に、ぐーっと高みへ昇っていったような気がした。細い腰が回転する。本のページをめくる。動きは音にのっているようにも見えるが、定かではない。そしてその動きは、左右や前後への揺れが異様にと言っていいほどに小さいことに気づく。彼女の身体の揺れを押し止めているものは、いったい何なのだろうか。そんなことを思っていたら、補聴器をそっと外した彼女がそれを口にくわえ、本の上に置いた。

 藤堂の身体は、藤堂の身体であると共に、ぼくたちがその周囲に「聴覚障害」という靄のようなものを張りめぐらした、一つの像である。その靄は、本当は藤堂の内部にあって、彼女の多くの属性の一つとしてひっそりと佇んでいるであろうのに、ぼくたちはそれを外側に出して彼女の皮膚に貼り付けようとする。こんな残酷さを、彼女はさりげなく小さく静かな動きで包み込むようにやさしく癒す。この公演で印象的に使われた本というもの。読むということと聞くということが、軽くパラレルに置かれていたのかもしれない。

 藤堂は聴覚を欠いているということを、ちらしに書いたり、またそれ以上に今回のように舞台上で補聴器を外すという行為によってあからさまにすることで、ぼくたちもまた何かを欠いた存在であるということを示してくれる。欠いていることの豊かさ。そのことにゆっくりとたゆたうように動く一個の身体。自分の中にぎっしりと詰まってあふれそうになっているものを、こぼさぬように、揺らさぬように、そう思いながら動いているように見えた。

ぼくたちは彼女が聴覚を欠いていることを意識することで、逆に彼女の姿を通して耳を澄ますことに集中している。そのように、ある人の存在を通して耳を澄ますということは、稀有な経験だといっていい。ぼくたちはその時、彼女の存在を通して風景を見、彼女の補聴器を通して音を聞き、彼女の耳を通して、きっと沈黙を聞いていたのだと思う。それが角の言った「やさしい風景」ということに違いない。


 友恵しづねと白桃房

友恵しづね(トモエ静嶺。1999年に改名) '55年、東京に生まれる。土方巽に師事。土方〜トモエメソッドを確立する。'87年以降、トモエ静嶺と白桃房を主宰。すべての作・演出・踏振・音楽・美術を手がける。'90'92年ニューヨーク公演、'94年オーストラリアのアデレード・フェスティバル参加、他海外でも「ビヨンド・ブトー」として好評を博す。'96年、エジンバラ・インターナショナル・フェスティバル招待参加。明乃プロジェクト、サナエ・プレゼンツ等による企画も行われている。

白桃房 '74年、土方巽のもとで結成。'86年、土方巽の血脈を受け継ぐ弟子たちによって再結成。

芦川明乃 '84年、トモエ静嶺に、'85年、土方巽に師事。'87年白桃房に参加。

 舞踏集団「トモエ静嶺と白桃房」が、ドクメンタ9('92 年、カッセル)のメインステージでインスタレーションを行なった韓国のアーチスト陸根丙(ユック・クンビョン)の作品をバックに、韓国のパーカッショニスト金大煥、日本のベーシスト吉沢元治、またトモエ自身のギターを交え「眠りへの風景−エイジアン・コラボレーション」を行なった(199471417日、キリンプラザ大阪)。

 トモエが天井から斜めに張られたワイヤーをバイオリンの弦のようにしてひくノイズから始まった。それは死者との交感を前にした祈りの儀式だったと言えよう。ユックの作品は、韓国の墓を模した黒くうず高い小山の上の方に、ただ9歳の少女の眼を映し続ける受像機をはめ込んだものである。

 二人の舞い手がユックの小山を挟んで演じた時、試みに受像機の眼だけを見つめた。それは瞬きをしたり動いたり、やがて受像機に映し出された一つの映像であることを超え出て、黒い小山そのものが生命を持ってこちらを見つめる/見守っているように見えた。そして二人の舞い手の動きに感応するかのようにぼくの眼の中の小山はユラユラと揺れ動き始めたのだ。

 舞い手はぼくたちの眼には見えない何ものかがそこに存在することを知っている。それはおそらく半島からユックや金が連れて来た魂たちで、舞い手は舞踏のしぐさでそれを抱きとめようとしたり運ぼうとしたりする。なるほど、舞踏のしぐさの一つ一つは、このように目に見えぬものを抱きしめたり追いかけたりする動きであり、またそれらが内から外から堰き上げてきたり押し寄せたりする時の抗いだったり、そういうものだったのかと深く納得することができた。

 時折舞い手の言葉に「こうしてみんなが来てくれて」とか「河原には生き霊、死に霊、ぎょうさん来てござって」とか「五所川原」という地名が聞こえてきたりして、そう言われてみるとただの観客のつもりだったぼくも、この魂たちが交感する恐山のような場に立ち会った生き霊/死に霊であったことに気づき、ユックの眼の少女や舞い手たちと同じ存在であったことを知る。

 この日、舞踏は初めてぼくの精神のありようの延長上にあった。この時ぼくという存在は、これも舞い手の言葉のとおり「生きてるんだか死んだんだか」わかりゃしねえ地点へと連れ去られていたようだった。


Copyright:Shozo Jonen 1997-2003, 上念省三:jonen-shozo@nifty.com


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