前田愛美 麿赤児 三咲レア 宮永照代 ヴィンセント・セクワティ・マントソー 宮原幸人 ムギヨノ
室野井洋子 室伏鴻 珍しいキノコ舞踊団 Monochrome Circus  森美香代


 前田愛美「Pygmalions

作品は(1)身体に顔が映写される、(2)床のビニールテープをはがして全身に巻きつけて繭みたいになってしまう、(3)何だかわからないが「消毒用エタノールを…」とか言いながらポーズをとる、という3つの部分から成っている。

全体に、自傷行為のようなダンスだったように思う。前田は、妙に普通そうに見えるという、非特権的であるという意味ですぐれて特権的な外見をもっているように思えるのだが、そうであることによってこの自傷性が他人事ではないものとして際立っているように思える。(1)の部分で身体の各所に目が映ったりするのを見ていると、彼女の身体が浸食されているようにも見えてくる。(2)でテープを巻いて動けない状態になった上で倒れ、一体このシーンはどのような収集がつくのかと不安になってしまう。

そのような危うさが、おそらくこの作品の主調である生命状態の変化であるとか死とかということに深い部分で通底していたのだろう。(3)の後半では、身体に文字が映し出される。はじめは顔によって浸食された身体が、最後には文字によって浸食されるというのは、たいへん大きな意味を帯びていそうで、かえってその意味性に身体がよく耐えられるかどうか、不安になる。前田の身体は、そのような不安さそのものが形象化しているようで、それが一つの魅力でもある。(DANCE CIRCUS 200172,3日 トリイホール)


 麿赤児

インタビュー「死者之書'96」のために(全文)


 三咲レア

BorderlessV

三咲レアが芯になって、元タカラジェンヌや元劇団四季のメンバーなど数名の女性だけでつくり上げられた「BorderlessV(構成・詞=西村由紀、演出・音楽=橋爪貴明)を、新神戸オリエンタル劇場で観た(2004131)。三咲レアとは、元宝塚歌劇団雪組・蘭香レアの新しい芸名。舞風りら(現花組娘役トップ)らと同期で、1995年春の「国境のない地図」で初舞台、その時からダンスがうまくスタイルのいい美しい存在として印象に残っていた。絵麻緒ゆうの「Bryant Park Movement」にも出演していて、神戸こくさいホールで観たのだが、とにかく絵麻緒を食ってしまうぐらいに光彩を放ち、大浦みずきが主演した前回の「BorderlessU」でもひときわ輝いていた。この二つの公演は、確かに宝塚の元トップスターが主演していたとはいえ、印象としては狂言回し的な役割に終始し、結果的に三咲の魅力を押し出す公演になっていたように見えた。

三咲が素晴らしいのは、まずダンスだ。のびやかな肢体を存分に使った、切れ味の鋭い動きが目をひく。今回は特にアメノウズメノミコトを演じただけあって、巫女性さえ具えているかと思われるほどのスケールの大きさと神秘性をもっていた。ジャンプした時の後ろ足の蹴りも美しく、絵の中のペガサスのようだ。しばしばちょっと信じられないような、目も眩むような動きを見せることがある。その瞬間が終わってしまった後で、今のは何だったのか、と思ってリプレイボタンを押したくなる。これは舞台芸術という、再現不可能で一回性の表現に接する醍醐味の一つだ。

そして彼女の身体とその動きは、ドラマを語らせて雄弁であるという大きな魅力ももっている。ドラマの流れや位相の変化を、身体のありよう、あらわれの違いとして、視覚的要素としてきっちりと刻み込んで表現できる力をもっている。舞台で光を浴びると、光を粒子のようなものとして時間の雫に変えて、時を止めてしまうような力をもっている。

ある時には、竜巻に巻かれて運命に翻弄されてしまうような激しい幻惑をも表わすことができる。仮にも舞台で何かを表現しようという人間は、一定の計算や目的に基づいて表現を工夫するにもかかわらず、他の何かに翻弄されてやむを得ずそのように生かされてしまっているという受動感覚を体現できてこそ、初めて役を生きていると言えると思うのだが、彼女はそういう何かをもっているようだ。その時、その役者は、自分の枠を超え出て、役そのものの本質をつかんでいると言えるのだ。

さて、この劇は、日を支配するアマテラスが岩戸に身を隠し、太陽の化身フェニックス(箱田あかね)まで身を隠してしまうところから始まる。三咲レア演じるウズメはそれらを探し求めてさまよい、様々な危難にあう。闇を支配するツクヨミノミコト(古内美奈子)が覇権を得て、ウズメに自分のために舞えと強いるのに対し、ウズメがどのように身を処していくかというところがポイントだ。最後まで舞うことを拒否して倒れるというのではなく、「月のためには舞えぬか」と哀しげに訴えるツクヨミに、その真情を理解したウズメが「光を乞う者のためなら舞おう」ということになって二人がユニゾンで舞い、ツクヨミからウズメが鏡を授けられ、アメノイワトが開き、フェニックスも軽やかに現われる。この時のレアの安堵の表情が素晴らしく、芝居を締めるにふさわしい。

ただこの最後のウズメとツクヨミの舞なのだが、鈴のついた銀輪を両手足にはめて、乱打の太鼓で舞うもので、地を打つ足、震える鈴など、地を鎮めながらその息吹を感じるような民俗的なモードで、非常によくできたものなのだが、この置かれた状況からいって、ややウズメに表情があり過ぎるのではないかと思った。納得したとはいえ自ら進んで舞うわけではなく、アマテラスやフェニックスがどこへ隠れたかも、戻ってくるのかもわからない状況である以上、少なくとも初めは能面のような無温な表情でよいのではなかったか。

この舞台は、第一部がお芝居、第二部がショーとなっていて、そのこと自体は宝塚や大衆演劇と同じで特段問題ではない。しかし、残念ながら「SUN RISE SUN SET(表記はプログラム記載のまま)と題された第二部が、藤林美沙の表情や存在感、古内美奈子のダンスがなかなかよかったとはいえ、全体には低調だった。

一つには公演の時間が短く、ボリュームが足りなかったせいでもある。率直に言って、このメンバーで2時間で7500円だと、宝塚に比べてもいかにも割高感がある。練習時間の問題などもあったのかもしれないが、せめてアンコールをたっぷり用意するなどして、観客の満足感を少しでも上げられなかったか。

それでも、三咲レアについては、本当によくやったと、ほとんど心から、少しだけやや同情して、言うことができる。ラストで全員が黒燕尾で出てくるシーンで、彼女が中心となっていたのだが、宝塚でもこのようなことはなかったと思うし、まして宝塚の外に出て、もしこの初主役の公演が成功しなかったら次はないのではないかという、何ものにも守られていない厳しい状況にあって、実に堂々と美しく立っている姿には、強く感動させられた。照明が消えて、それでも襟をキリッと持ったままの彼女の姿が、非常に美しかった。だからこそ第二部の構成については、もっともっとスターである彼女をスターとして見せるように徹底した美しさを追求すべきだったし、彼女の音域や状態に合った歌を歌わせるべきではなかったか。

三咲は本当によく座長公演を務め上げたとは思うが、脇役の顔ぶれも必ずしも満足いくものではなかったし、ブツ切れの寄せ集めのような第二部は、ダンスナンバー、歌を含めわずか10曲では物足りない。二番手格に位置されているらしい、やはり元宝塚の華宮あいりは、以前から課題だった歌に進歩が見られず、身体も重そうで、退団後初舞台にしては緊張感を欠いた。何とも残念な思いの公演となってしまった。


 宮永照代

 思い返して妙に素朴で印象的だったのが、917日に神戸のシアター・ポシェットで行なわれたマザッタ舞踊団公演「モーナ−海の女神」である。元「天鶏」の宮永照代を中心としたコラボレーションだが、宮永の動きは、舞踏を(おそらくは)呪縛してきた日本の東北の農村的土着を振り捨てて、近畿地方のゆったりした温和な農村の中で、自然の恵みの喜びを全身で表現するような開放的な動きだった。共演のパフォーマー・黄色原人が、全身を黄色にまとってただ突っ立っているだけで、ぼくたちの皮膚の色を意識させたこととも相俟って、温暖な瀬戸内沿岸で生まれ育ったぼくには共感しやすい「土着」だった。

日本人が日本を表現するのはきっと難しい。ぼくたちはふだん日本であることを意識していない分、他者から日本を問われたときに、過剰に他者の眼になって日本を演じてしまうのではないか? とりあえず、これは越えていこう。でないと、ぼくたち自身、そのステレオタイプから脱することができなくなる。


 ヴィンセント・セクワティー・マントソー

豹のようなしなやかさと強靭な肉体を持つ南アフリカの実力派の若手振付家。驚異的
な運動能力と、自身の属する文化や伝統、社会、自然への深い洞察力を合せ持つ彼の
身体には多くの者が深い感銘を受けるだろう。その活動は自身が育ったカンパニー
「ムーヴィング・イントゥー・ダンス」と共にアフリカ各地、ヨーロッパ、アメリカ
に及んでいる。92年ヨハネスブルグ・ダンス・アンブレヲ優勝、95年第一回アフリカ
ン・コンテンポラリーダンスにて受賞、バニョレ国際振付賞に2度招聘を受けるなど
その受賞歴は数え切れない。

PHOKWANE International Contemporary Dance Session "Edge 2" 200158Art Complex 1928

前回観たものよりも、かなり省略されたショート・バージョンたと思われる。それにしても、前回圧倒された、民族の数千年()の命脈といったようなものが感じられず、ポイントの見えない作品となってしまったのが、残念だ。もちろん、こちらに過度の思い込みのようなものがあったせいかもしれないが、身体のキレまで鈍く見えてしまった。

前回この作品に感動したのは、彼の民族や文化のありようについて、ひとつらなりの情熱的な物語が渦巻いたからであって、原初、王国、ヨーロッパ支配、独立といったような歴史が神話のようなプリミティブな美しさによって語られたことによる感動をえたのだった。その全体を短縮したのではなく、部分的に割愛したようだったのが、物足りなかった原因だったと思う。


 宮原幸人

幼いときに聴力を失った宮原幸人という女性が補聴器を外して1時間の即興ダンスのステージに立った/ぼくたちの耳に入り込むさまざまな雑音は、彼女の美しい耳に届かない/無音をいとおしむように、ゆっくりと、空気の揺れを全身で測り、それに応えるような緩やかさで微かに空気を揺らす/震えとの会話を楽しんでいるようで、それはぼくには垣間見ることもできないが、いつしか空間は共にその交感を楽しんでいる/彼女は一人で踊っているんじゃない/彼女の腕が空で大きな弧を描くとき、ぼくたちも共に同じ形を描き、緩く微かな風を心にはらむのだ/床に耳を当てる/指を何かの印のように動かす/それらにぼくはやや過剰なほど彼女のいる無音の世界を意識する/しかしそれは隔てであるよりは憧れであり、有徴として神を観る心の向きである/何かの長さを測るように床に掌でそっと巾を作り、それを顔の横、耳許まで上げ、ゆっくりと狭めていく/なべてこの世にあるものがあることのいとおしさを形にし得ていたようで、ぼくもまたぼくの耳の形を意識でなぞってみたのだった *宮原幸人ソロダンス公演「HIBIKI−響き−今日生きて、今日の空を見…」。1122日、神戸・三宮/イカロスの森 (JAMCi '97.2'98年に藤堂悠貴子と改名


ムギヨノ・カシド Mugiyono Kasido

インドネシア出身。'67年生まれ。インドネシア芸術大学ダンス/シアター学科卒業。'94年よりジャワを代表するサルドノ・クスモやミロトの作品にダンサーとして多数出演。海外アーティストとのコラボレーション作品も多く、同時にソロ作品も数多く発表している。初の振付作品は「Mati Suri」(’92)。「Topeng and Kosong」(’97)にてヨーロッパツアーを行う。また「Kabar & Kabur」(’01)でアジアコンテンポラリー・ダンス・フェスティバル(大阪)に参加。以降JADE2002をはじめ、シンガポール、ベルギー、ポルトガル、香港、デンマーク他で国際的に活動する振付家・ダンサーである。

インドネシアのムギヨノという男性ダンサーの作品名「KABAR-KABUR」とは、プログラムによると「あいまいなニュース」「うわさ」という意味らしい。大げさで奇妙な足どりで歩いて来て、舞台中央の黒い壇に足をかけ、手を合わせたり片手で挨拶したり、儀式的な始まりであるのだが、やはり妙にコミカルなのが気になる。勢いをつけて敬礼をすると、直立のはずなのに斜めにゆがんでいて、足を掻いたり手を振ったりと、落ち着きがない。手だけが自分で動いていって両手の拳が喧嘩したかと思うと、指遊びのようになって、その指が伝統舞踊のような振りになる。

そんなふうに四肢、特に腕がそれ自身意志を持っているかのように動き続け、とうとうシャツの中に入ってしまう。ここからがこの作品の真骨頂であると思われるが、ダブダブの白いシャツを使って腕や膝や首が神出鬼没するのが、まず見た目に面白く、やがて徐々にシリアスな気分になってしまう。それにはムギヨノの哀愁を帯びた(というか、やや情けない)表情もあずかっていると思われるのだが、その存在自体が何かひじょうに大きなもの、たとえば社会とか国家とか、人間の本質に直結しているように見えてくるからだ。

もちろんプログラムの文章の影響も大きい。改めて全文を引き写してみよう……「言葉としての意味は、“あいまいなニュース”“うわさ”。ムギヨノは語る「ひとつの国は自分達の身体だ。様々な器官と末端がお互い、そしてそれぞれが特別な機能と役割を持っている。生き残るためにそれらは調和を持って働きつづけなければいけない。さもないと悲惨なことに病気になったり、死んだりする。」「KABAR-KABUR」は、現在のインドネシアの無秩序で不確かな社会、経済、政治的な状況に対する振付家の観察に基づいた探求である。ムギヨノにとって、今のインドネシアは多くのことが不均衡で不透明、そしてすべてがめちゃくちゃになっている。確認できないそして疑わしい多くの話と報道に囲まれる毎日。ニュースは、あいまいで、いいかげんで理解不可能。誤解が満ちているインドネシア……。

ダボダボのシャツから腕や足や膝がニョロっと出てくる様は本当におかしく、瞬間芸か手品みたいだ。観る者の意表を突きながら、何よりムギヨノ自身が驚きためらい、困っているようなのがいい。だから彼もぼくたちも、「何ものか」に対して等しく無力であり得ていることがわかるわけだ。

このことは、表現にとってとても大切なことだと思う。ぼくたちは「何ものか」をどこかに措定しようとしてはいるが、たいがいそれに触れたり見たりはできていない。それこそ「あいまいさ」そのものとしてしか存在していないようなものだ。はたして表現者はそれを特権的に知っている者として振る舞うことができるのか。

少なくともここでムギヨノは、それを観る者と共に触れたいと願う立場にあるものであった。彼はその何重ものあいまいさや不明瞭さを、ぼくたちよりずっと直接的に苦しんでいる者として現れていた。

続いて彼は手足のきれいな型の中から、自分の拳で自分の後頭部を殴り、自分で振り向いて驚いてみせるという、コントめいた動きをとった。そして次々に繰り出されるピストル、機関銃、手榴弾…。それらを彼はシリアスに繰り出し受け止めるのではなく(というのは、常に彼は送り手であり受け手であるからだが)、笑って見せる。ここにはおそらく相対化とか客観視も入り混じっているとはいえ、さらに一歩進んで(だか退いてだか)諦念と自己戯画化が多分に混入されていると思える。

ぼくは、ここにムギヨノの外界や他者に対する態度(attitude)という問題があることに思い至る。彼が観る者に提示するのは、奇妙で不条理でいい加減な社会や人々の姿であるようだが、そこには当然のごとく自分自身も含まれている。それはちょっと捨て鉢なユーモアのようにも見える。しかし、ぼくは最後の最後にやっと気づいたのだが、ムギヨノはほとんど最後に至るまで、舞台中央の黒い壇の上ですべての時間の動きを展開していたのだった。最後になって、やっと壇の外で倒立し、まるで十字架のような形になって仰向けになる。外に出たことで、初めてずーっと壇に縛られるようであったことがわかった、ということ自体、たいへん象徴的な出来事だったように思えた。つまり、彼はその内部にいるということではないのか。内側であるからこそ、とらざるを得ない態度というものがある。それはおそらく厳しく過酷なものだろうが、外へ出てしまえば無効となってしまう種類のものだと思われる。

彼は一人の表現者として、相対化や対象化を自らに禁じているように見えた。それが彼の作品を苦しいほどに複雑にしているように見えた。本当の意味のユーモアというのは、このようにギリギリのところで成立するのではないか。身体能力の高さ、美しさはもちろんのこと、世界との向き合い方という意味で、ひじょうに上質で完成度の高い、しかし問題作であると思った

アジア・コンテンポラリー・ダンス・フェスティバル Bグループ  20011026日 トリイホール


 室野井洋子

 向井千惠の胡弓、庄子勝治のサックス、室野井洋子の舞踏による「水花火〜即興にヨル」(十一月五日)は、キーファーが鉄でパオを造ったらこのようなものかと思わせるカラーズファクトリー(谷町九丁目)という空間で行なわれたのだが、やはり楽器と舞踏のオーダーを壊して濃密な時間を構築した。

 複数の演者による即興性の高いパフォーマンスでは、好き勝手なことをやっているように見えながらも、予定調和的な終結を迎えることが多い。それは一人がきっかけを出すことであったり、時間の制限であったり、またやるべきことはやったという満足感でか動けなくなってということもあるかも知れない。

 この「水花火」で自分自身の表現の完結をもって自律的な終わりを迎えたように思われたのは、室野井だった。観客の入口から壁伝いにほとんど誰にも知られないほどのひそやかさをもって演者の側に入り、高いテンションを保ったまま最後に動きを止め、止まったまま終わるのかと焦れそうになった矢先に膝から崩れ落ちた。このとき他の二人は、こう言ってよければぼくたちと同じく、室野井のクライマックスを見て自分たちのクライマックスを知らされたのではなかったか。

パウルはクライマックスを迎えない。ぼくたちはノイズに痛む耳と頭を抱えて神戸の人工島に放り出された。室野井一人に置き去りにされたぼくたちは放り出されて天王寺のネオンを仰いだ。いずれにせよ、このパフォーマンスというジャンルは、見る者にずいぶんつらく残酷な時間を強いるもののようだ。


室伏鴻ソロ「外の人、他のもの」 2000913日 トリイホール

 まずその姿のよさに、見とれた。大きな足で地を掴み、後じさりする足の運びの美しさ。強烈な存在感で、実にカッコイイなと思ったというのが、第一印象である。それがウーップと激しく全重量を傾ける格好で倒れ、痙攣する。そしていきなりの暗転であった。

 ピアノが入ると、それは抒情的な連なりだった。なかなかおしゃれな感じで、ポーズの決め、美しい歩き方には、何かが確かにこもっているように見える。窮屈なようで自在な動きが目に心地好く、動きの後から「何ものか」がついてきているようで、不思議な気分になる。熱狂的ではなく、理性的に流れていく、一つ一つのポーズの連なりのようで、絵として美しいなと思う一方、その「何ものか」らしいものを掴むことができず、ややもどかしい。

 続いて室伏が、ググとかグフとか、奇妙で不気味な音をもらし始める。紳士が未知の獣のような不思議で奇妙な存在に移ったわけだ。この移り(変化=へんげみたいな)が、この30年以上の舞踏のキャリアを持つ室伏鴻という男の真骨頂なのだろう。掛け声のように声を上げ、激しく昏倒する。ズボンもシャツも脱ぎ捨て、裸形になる。そして何度も身体を地面に打ちつける。

 これは一つのピークだったのだと思う。身体を打ちつけることによって、その痛みや衝撃が空間に充満し、観る者もその痛みを分かち、脂汗を流す。それが度重ねられることによって、空間の温度はどんどん上がっていく。そうなっていたのだと思う。

 しかしぼくは、完全にそのようなうねりから取り残されていた。このキャリアも名声もある一人の舞踏手が、バシンバシンと身体を打ちつけたり倒れたりしているのを、何だか大道芸みたいだなぁと、つまりその昏倒を一つの練達した技術であると観てしまっていたのだった。そう観てしまうことと、そうではなく観ることとの間に、どのような懸隔があるのかはわからない。先にも述べたように、ぼくは室伏という舞踏手にほとんど何の先入観もなくホールに来て、かっこいいなぁ、ダンディだなぁとため息ついていたのだ。それがなぜ、彼がいわゆる舞踏の形になったときに、トランスのスリルを感じることなく、フラットに見えてしまったのか、われながら納得できない。

 序盤でカッコよかったのが悪かったのかもしれない。冒頭に見せたカッコよさから、裸形になって、一度とことんカッコ悪い、恥ずかしい格好になって、そして再び聖性を獲得するはずだったのが、ちょっと時間切れだったのか、聖性に至らなかったということだったのだろうか。落差が、きつかったのかもしれない。序盤のダンディズムを素直にダンディと取ってしまったのが失敗で、本当はそれをこそまがい物として軽視すべきではなかったのか。

 続いて室伏はボソボソと、「今日は、土方先生にだいぶ助けていただきました」うんぬんと、素に戻って語り始める。「土方先生も、天国で寝床がないだろ」と言って中央に敷いた毛布みたいな布を見やり、わが身に巻きつけ、何か歌う。物になる。「さようなら」と言い、ノシノシと溶暗の中、引っ込む。これもまたカッコいいのだ。やっぱりこの人のカッコよさが、ぼくを邪魔をしたんだなと、いささか憮然と、しかしやはりカッコいいなぁ、こんな男になりたいなぁとは思った。


観客との関係性を築く (珍しいキノコ舞踊団)

 1991年、日本大学芸術学部演劇学科の伊藤千枝、小山洋子、山下三味子を中心に結成。
 これまでの代表作に『これを頼りにしないで下さい。』(シードホールPERFORMIX参加作品)、『〜の価値もない。』(イーストギャラリー)、『彼女はあまりに疲れていたのでその喫茶店でビートをとることはできなかった。』(ラフォーレミュージアム原宿)、『もうお陽様なんか出なくてもかまわない。』(METホール・テアトルフォンテ etc.)、『電話をかけた。あと、転んだ。』。(財団法人神奈川芸術文化財団主催公演)。
 珍しいキノコ舞踊団は今までの舞踊界のシステムを踏襲せず、ユニークかつオリジナリティ溢れた発想、技法を用いた新しい形態の舞踊団です。3人の合作というスタイルにより作品は常に懐疑的で、特定のコリオグラフィック・システムに拘束されず、あらゆる意味性からの逃走、逸脱を図っています。美術、音楽、演劇などのアーティストとの交流も盛んに行っており、若い世代からの高い支持を得ています。

 二年に一度の「びわ湖ホール夏のフェスティバル」が、今年も八月に様々なダンサーを集めて開かれた。この企画のねらいの一つは、屋外、ロビー、リハーサル室など、劇場内だけでなくホール全体をパフォーマンスの場として生かすことにあったのだが、それを最も強く印象づけたのは、一九九〇年に伊藤千枝を中心に東京で結成された「珍しいキノコ舞踊団」による「フラワー・ピッキング」という公演だった(八月九、十日)。

 ダンサーたちが喫茶ラウンジで笑いさざめく姿に始まり、ロビーへ、大ホールのホワイエへと、踊りながら軽やかに移動する彼女たちを、観客はためらいがちに追いかける。湖に面した大きな窓の外で伊藤が歌い、ホワイエのダンサーが合わせて踊る。導かれるままに細い通路を歩いていくと、大ホールの楽屋。そこでモニターテレビを通してメンバーが伝授してくれたダンスを観客全員で踊りながら、楽屋口から大ホール舞台上へ移動する。細長いステージの端には、久保英夫によるしゃれた家具や照明が置かれ、七人の女性ダンサーが滑らかにちょっとクールに動き回る。

 彼女たちの動きの魅力は、普通の女の子のような姿なのに、踊り始めると風のように軽やかで妖精のようのように素敵になり、なのに人間(ダンサー)同士の関係性はきっちりとリアルに見せてくれるところにある。複数が同じ動きをしても同化せず、一人一人が独立していながらも親密で、何よりも楽しげなのがいい。

 そしてその親密さを観客との間にも成立させることが、彼女たちの重要なテーマである。作品というものを舞台という定型の枠組みの中でだけ成立するものであると考えるのではなく、観客とダンサーの間に成立するものだと考えれば、それは当然のことだ。ついて回ったり、踊ったり、観客にとっても大変忙しい鑑賞行為であったが、ダンスという表現の成立について多くのことを考えさせられた、でも、とっても楽しい公演だった。(京都新聞「ダンス批評」)


Monochrome Circus

2005年「劇の宇宙」のためのインタビュー

 Monochrome Circusの活動は、コンタクト・インプロヴィゼーションをベースにした、いわゆるコンテンポラリー・ダンス作品を世界各地の劇場で上演するものと、幼稚園や民家など様々な場所でピアニカやリコーダーを抱えて「出前」公演をする「収穫祭」と題されているものと、二つの路線に分かれているように見えている。両者はどのように位置づけられているのだろうか。

坂本(S) 「収穫祭」は一見すると、楽器を持ってどこででもやりますよっていう、気軽でふにゃふにゃしたものに思われるかもしれないけど、実は即興的な要素はあまりなくて、作品として固定したレパートリーをもって行くんです。単純に野外で即興をする、というのではないわけで、ぼくは「収穫祭」のテーマは「空間とダンスの出会い」だと思っているんですね。同じダンスが、いろいろな場所でやることでどう変わっていくか。与えられた空間に作品を配置して、風景や人を吸収することで、いろいろなものを含めた「場」が成立する。そういう様々な関係性の中で成立するパフォーマンスであって、その意味ではコンセプチュアルなワークだと思います。

− 劇場の中で即興をしようという場合は、基本的には劇場の中でしか出来事は起こらないけど、「収穫祭」の場合はその場所、人、すべての面で何が起きるかわからない。なのに、あらわれとしては「ふにゃふにゃ」している。

S 呼ばれて行くわけですから、誰かがぼくたちのところに電話をした時から、もう出来事は始まっていると言ってもいい。ご飯のメニューを考えたり、どんな人を呼ぼうかとか。

− そういう意味では、時間のワークであるとも言えますね。さて、関係性という点では、コンタクト・インプロヴィゼーションはまさに身体を通じた関係性が主題となるわけですが。

S 最近、ワークショップでコンタクトを教える時の教え方が変わってきたんですよ。以前は、コンタクトをコミュニケーションの技術として捉えていたようなところがあったんですが、今は対話そのものであると思います。ぼくらの日常的な会話とそんなに違わない。ただボキャブラリーが、押す、引く、撫でる、引っ張る、当たる、抱える、というように身体に根ざしているだけじゃないかと。

− ただ、他人の身体に触れるって、すごく勇気のいることだし、日常的ではない。

S だから、その場を提供することが必要になるわけですね。ある人から、ヨガとかブームだけど、それは個人的な閉じたことだから、これからはコンタクトの時代じゃないかと言われましたが。

− それはちょっと楽観的すぎるように思いますが。

S ()。そもそもダンスを始めたきっかけとして、学生時代に演劇をやっていろんな意味で行き詰まってパリへ行った時に、ポンピドゥー・センターの広場で踊っている日本人女性を見て、身体一つで表現できることってすごいな、と思ったことがあったんです。その人に触発されて、ぼくもそこで樹になるパフォーマンスをやった。それがきっかけでいろんな出会いがあったんですね。身体一つでコミュニケーションって広がるものだなぁと実感して、日本に戻ってMonochrome Circusを始めたんです。

 メンバーの出入りもあったが、多くの外国人のダンサーとコラボレーションや、海外での公演を含め、コンスタントに活動を続けている。今秋もディディエ・テロンの作品の再演、ダム・タイプの藤本隆行との発光ダイオードによる照明を使ったコラボレーションなど、多くのプロジェクトを抱えている。海外公演も控えている。春に発表した「水の家」は、ディディエの「借家人」に触発されながら、極限状況下の男女の関係を濃密に描いたとして好評を得た。今、坂本は「水の家」の作品としての完成度を高めることがメインテーマだと言う。これからの展開が、ますます楽しみだ。


Copyright:Shozo Jonen 1997-2005, 上念省三:jonen-shozo@nifty.com


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