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坂本龍一「OPERA」 ささらほうさら リナ・サーネー リン・サントス 清水啓司 上甲裕久 角正之 SEVEN
COLOR 族長の足袋
坂本龍一「OPERA」
坂本龍一が構想、作曲、指揮を行なったオペラ「LIFE」(写真左、「アサヒグラフ」から)を、大阪城ホールで観た。ピアノを弾きながら指揮をする坂本の姿や、ステージで動く身体は遥かに遠かった。テノール歌手のホセ・カレーラスが朗読する村上龍の「MONOLOGUE OF THE DEAD LETTERS POSTMAN」という物語で作品の外枠を定め、今世紀の人類の、主に悲惨な営みを映像でレビューし、多くの著名人の談話の記録映像やインタビューでメッセージを積み重ね、数か国語の文字映像を大きなスクリーンに流していく。映像、特に文字の見せ方について、基本的に様々な意味で読みにくかったことは、この作品の大きな瑕であった。
平和とか地球とか生命について、歴史観や現代の思想や芸術に基づくテクストがちりばめられていた。要するに「LIFE」はあくまで大文字で語られるものであった。その中心にはもちろん彼の音楽があった。しかし第1部のそれは彼自身が今世紀の「各年代の特徴的なスタイルの作品をモチーフに」書き下ろしたと言う通り、現代音楽のコラージュであった。第2部では世界のいくつかの文化地域の歌手たちがアリーナを囲んで歌い交わすもので、民族音楽のコラージュだった。そして第3部はおそらくは正統的なレクイエムが、美しく響いた。要するにこの作品は、坂本が実践してきたことや、築いてきたネットワークのすべてを投入した膨大なコラージュであり、今世紀のレビュー(回顧)だった。
ついこの間まで大阪にいて、TORII HALLなどで冗談を言い合っていた杏奈から、この公演にダンサーとして参加するという便りが届いたのは、数ヶ月前のことだった。八百屋舞台のように斜めになったステージで、ガシッと床面に足をふんばっている豆粒のような彼女の姿を見つけて、ぼくは坂本の意図とはすれ違っているだろうが、彼がどんなに圧倒的な情報量で地球や生命の危機を唱えても、杏奈や、もちろんダンス・クルーをリードするフランクフルト・バレエ団のアントニー・リッツィら、一人一人の人間の身体の動きのほうが、信じるに値することを実感できたように思う。
それは何も踊る身体には限らない。歌う身体、モンゴル長唄のチメドツェイェや西アフリカのサリフ・ケイタの声にも同じように、空間の中に突出するものを感じた。これらの歌う身体、踊る身体は、坂本(や周辺のマスコミ)が声高に言う「LIFE」とは違って、小文字の「life」としてぼくの中に屹立した。(「DANCEART」掲載)
病床の父に昼御飯を一口食べさせ、下の世話をした感触もそのままに見た、ささらほうさらの「さくら」/
大駱駝艦の女性によるユニットだが、まずぼくの眼を射たのは、彼女たちの肢体の輝きの生命感だ/
爪先立って静かに回る時の太股の後ろ側がたわわに揺れる/
虚空に何か文字らしきものを書く時に身体がたわみ、それが瘧りに移る/
押しくらまんじゅうのような遊戯に哄笑が喚び起こされる/
チャルダッシュをバックに交わされる「やぁ」「へい」「がってんだ」という掛け声と激しい痙攣/
眼のしばたきから涙を射精のように放出する/
一つ一つの動きが、大地から芽吹く生命の激しい噴出そのものであり、たいそう眩しかった
ささらほうさら第4回舞踏公演「さくら」 5月12日 伊丹・AI HALL 振鋳:工藤治子 (JAMCi '96.8)
表現が全体であるということ〜リナ・サーネー「ビオハラフィア」
2月21日、新宿のパークタワーホールで「ビオハラフィア」という公演を観た。リナ・サーネーというベイルートで生まれたレバノンの女性が、録音された問いに応えるという設定のパフォーマンス。質問は彼女の作劇や芸術観や彼女を取り巻くレバノンの政治や検閲のことだったり、彼女の私生活についてだったりするから、見ているほうは、実際のインタビューに立ち会っているような気になってしまう。
その結果、この公演を観たということにいくつもの層が生じる。
(1) レバノンという国の政治や文化の状況を、一人のアーチストの活動を通じて知ることができてよかった。
(2) リナという一人のアーチストの芸術観や私生活や人となりをいろいろと知れてよかった。
(3) これが一つの舞台作品として提出される以上、表現の方法として彼女が施した設定や構成が面白かった。
一般的に(1)について気をつけなければならないのは、たとえば「ベルサイユのばら」という作品を観て(あるいは読んで)フランス革命が理解できたと思い込み、オスカルという架空の人物を中心とした歴史を事実であると誤認してしまうようなことにならないかということ。同じことが(2)についても言えるのだが、ここで語られた彼女の、たとえば性生活や家族への感情が、まったく伝記的な意味で彼女のありのままを語ったことであるのかどうかは、本当はわからない。ただしここでは、リナは、そして彼女をめぐる状況は、歪曲や誇張、フィクション化を許すような余裕のあるものではないようで、少なくともリナが触れうる範囲での事実や、リナの視点からの正義や真実は語られていたようではあると感じられた。
そして(1)についても(2)についても共通しているのは、それが(3)を経たものである以上、舞台に上げるに当たって何らかの操作や色づけ(脚色)がなされていることを常に意識しておく必要があって、その操作の質こそが、ぼくたちにとって芸術とか表現ということだと、普通は考える。
では、ここでの操作は、どのようなものであったのか。たとえば最もわかりやすいのは舞台装置(舞台美術=アリ・シェリー)の存在で、リナの前に薄い水槽が置かれていて、中にはアラックというレバノン特産のアニス酒(水と混ざると白濁するという)が入っている。ジョボジョボと水を入れると案の定白濁し、その水槽をスクリーンがわりにしてビデオ映像が映し出され、舞台に実在するリナを隠す形になり、隠蔽または二重化してしまう。
実在のリナがレバノンの酒で覆われるというのははなはだ象徴的だ。実際に厳しく行われている検閲のことを思い出してもいいし、彼女自身が生活と芸術をある時には二重化しているかもしれないことを、このインタビュー形式の作品を裏返す意味で思い出すのもいい。
しかし最後に観客は彼女の徹底的なしたたかさを思い知らされることになる。水の混じったアニス酒をチューブから小瓶(彼女の顔写真がプリントされている)に分け、机に並べると彼女は舞台を降り、出口に陣取って「1本9800円」と札を掲げたのだ。「作品」が終わったのかどうかわからず、出るに出られない観客は、何人かは突発的に拍手をしてみたり、傲然と席を立ったりするのだが、この人を食ったような終わり方で、改めて観客は、比喩的にではなく、作品を含めたすべてを売りに出してしまうような彼女のすさまじい「全体性」を目の当たりにする。この期に及んで、ぼくが述べたような、現実だの虚構だの芸術だの表現だのというようなことを峻別することに、ほとんど意味がないことを知る。(PAN Press 2004.5)
リン・サントス
リン・サントスというオーストラリアの女性ダンサーの「Desert Country - A Body Record」でまず強く飛び込んできたのは、舞台上に固められた赤土、そして赤土で染められた布の、その赤の美しさだった。おそらくはオーストラリアの大地の、最も象徴的で代表的な物質、色として提示されたものなのだろう。それに囲まれた中で、動物のようにゆっくりと歩いたり、ピョンピョンと跳ねたり、動物の声を真似たりと、豊かな自然を彼女なりになぞることによって大地や自然との交感を実現しようというのだろう。
しかし、動きがやや単調に過ぎ、滑らかさや美しさを感じられなかったのが残念。文明の象徴である飛行機(だと思われたのだが)、また旗を持って旋回したのは民族の誇りを示すことだったのかと思うが、それらを通じておそらくはオーストラリアという島の、あるいはアボリジニーという民族の、自然と密着した歴史を描こうとしたのだろうが、ぼくとしては共感を抱くには至らなかった。アジア・コンテンポラリー・ダンス・フェスティバル Bグループ(2001年10月26日 トリイホール)
エメスズキ、吾妻琳、中田そよか、清水という異色といっていいだろう組み合わせ。ダンサーそれぞれにきっちりとした役割、性格が与えられているのがいい。その割振り方も、決して斬新ではないが、それぞれの特徴をよく生かした上でさらに伸ばしていくような、的確なものだった。
エメは無垢で神々しく、世界にたった一人である存在、という空気を強く持っていた。それが世界に初めて現れた存在なのか、最後に残った一人なのかは、なかなか面白いテーマだが、この作品の冒頭では、全員が現れて客電がついている状態から、一人残ったエメが闇を始めるというふうに設定された。しかしその背後には、吾妻が獣のように這いずっていて、もだえながらエメに近づこうとする。
エメが去ると、ワルツが流れ、吾妻が盲いたピエロのように踊る。関節の動きが軽快で、外界に対してどうしたらいいのか迷っているような愛らしさが感じられた。観客入り口から入ってきた清水が吾妻とは無関係のように舞台にラジカセを置いて去り、そこから流れる曲に合わせてピクピクと吾妻が動き始める。その動きが徐々にダンスのようになっていく。清水がまた入ってくるが、ラジカセの傍らで固まっているだけだ。跳び回る吾妻と屈んでいる清水が対照的だが、清水も微かに動いていて、その動きが少しずつ大きくなる。
吾妻が去ると、清水が痙攣を起こしたように引きつり、ダイナミックにはじける。中田が人形のように何を見つめているでもなく座り込んでいる。清水の視線は鋭い。清水は惑乱したようになり、中田のそばで目を剥き、いったん去るが戻って来て中田を抱え上げ、降ろし、を繰り返し、そのたびに向きを変え、結局四方を向かせる。中田はただ置かれた、という感じで座っていたが、ふと掌に何か形を与え、見つめている。それはこれまでのただ目を向けているだけではなく、意志をもって興味をもって見つめているようだ。中田は掌を顔に当て、頭に当て、という単純な動きをとるが、それがいい形で観る者に感情の生起を与える。吾妻がキョロキョロしながら舞台を半周して去っていく。中田は倦怠の内にあり続ける。
さて、二人の男たちがスピーカーとライトのついた、組んだ足場を運び込む。中田を抱えて背中向きに置き、男たちが入るとパッとライトがつき、ジャンジャカした音楽に合わせて二人がポーズをとるが、直後に清水は崩れ落ちる。中田が立ち上がりゆっくり手前へ向かって来て座るのだが、ここの中田にもっと強い存在感があればな、と思って残念。しかし、この後、エメが現れて美しい水平移動を見せ、舞台の風景がひじょうに美しいものとなった時、中田の内向する表情はかなり強く鋭いものとなっていた。
清水は呆けたように頬を打ち続けていた。頬を打つとライトをバックに汗が飛び散る。彼の顔だちのせいもあるが、エル・グレコが描く男のように、悲しみを湛えながら重力を失っているかのように、いやもっと正確に言えば、地球の重力と月か太陽の引力に長身を引き裂かれそうになりながら、背や腕の細かい動きに耐えていた。
ここまで見てきただけでもわかるように、この作品は、一人に一人が貫入するように連続している。様々なありようの者たちが貫入しあい、されあっている。貫入するということは、一部分になるということでもあるが(もちろん、吐き出されることだってあるわけだが)、奇妙なことにここではそれぞれが居場所を確保するために争ったり自己主張したりするわけではなく、ごく自然に訪れ、去っていく。なのに、痕跡は深い。そんな貫入の痕を最も深くとどめているのが、清水その人であるように思える。
それは、清水が一人の人物であるより先に、一つの場であろうとしたからかもしれない。もちろんこの作品は、4人のダンサーそれぞれが強い存在感を持って舞台に上がったり下がったりするのだが、清水は他の3人の往来にひときわ侵食されているように見える。吾妻はトリックスターのように自在で奔放だが少しシニカルで我が道を行っている。中田は動きを見せるよりは表情と存在感で捧げ物の子羊のようである。エメは天女のようでありながら、とても危なっかしい、フラジャイルな空気を醸し出している。そのような者たちが通り過ぎる場所として、このheavenは形をとったように思えた。清水は当日のプログラムに書きつけた文章の中で「みんなそこに行きたがる/そんな思いで/みんなつながっている」とこの場所のことを定義しようとしているが、確かにみんなが行きたがるのだが、そこに留まることはできないような場所であるように思えてしまった。ダンスによってこのような世界観を打ち出せたのは、すごいと思った。
上甲裕久ダンスリサイタル「ミレニアム」は、「6430名の尊い命に祈りを あのときのこと、そして、明日へ未来へ」という長い副題をもっている。冒頭で震災体験の作文を数篇朗読する(朗読=宮田圭子、松谷令子)。おじいちゃんを返せと叫ぶ声もあれば、記憶は薄れるかもしれないが決して忘れないという声もあった。そして震災で命を落とした少年の、最後の声があった。このようにして、観る者は否応なくあの時に引き戻され、その時に失われた命に思いをはせることとなった。
ゆるやかに何人かが位置を変え、現れた東仲一矩とピアッツア・ナオミのフラメンコによる激しい足のステップには、大地を鎮めるというだけにはとどまらない、激しい苦悶のようなものが表れていたように思えてならない。やがてその激しさがフィニッシュを迎えると、越中おわら節の奏者である若林美智子が胡弓を弾きながら入ってくる。それに従うように一人の男が、柔らかな中にも鋭いキメをはらみ、何か強い決意を秘めたように現れる。これが上甲その人だ。やはり足で地を叩くこと、身体で地を打つことで、地と魂を鎮めようとしていた。
この後、今中友子を筆頭にした、感情のこもった美しく激しく重い動きが続く。身体から思いがあふれそうだと思ったのは、先入観のせいではなかっただろう。そして夏山周久の瞠目するようなジャンプは、この時間と空間の中に突出する何者かの訪れを期待する心があったからに違いない。再び胡弓の音色によって静かに大団円を迎えようとした時、30名近くのダンサーらによって織り成されたすべての瞬間、すべての動きが、深く凄絶な祈りであったことがわかり、カーテンコールは何とも異様な熱気に包まれたのだった。(1999年12月4日(土) 神戸国際交流会館メインホール 「Ballet」掲載)
角
正之
神戸市在住。Dance
Camp
Project主宰、風の舞塾代表。
68年/ブレヒト演劇ゼミナール(東京)修了。モダンダンスを神澤和夫、茂子に師事。82年/独立、ソロ活動開始。89年/ダンスキャンププロジェクト結成。以後、活動の中心を関西に置き、名古屋、東京と活動の成果を上げる。同年、第5回埼玉国際創作舞踊コンクール激励賞受賞。91年/第6回埼玉国際創作舞踊コンクール最優秀賞受賞。ヨルダン、スイス、リトアニア、フランス、台湾などで公演。
<ソロの活動とワークショップ活動>
95〜96年/ソロダンスシリーズ<空気と瘍>No1-No5を展開する。96〜98年/<BODY
MEDIA MIX
LAB>を企画し、HOMO-NOISEシリーズを始める。99〜03年/ポトラッチダンスゲームのワークショップを展開中、全国各地へ。03年〜集団即興のためのポトラッチパーティを活動を始める。03年〜音と動きのMagical
Dance Gearシリーズ-Dyad
improvisationを毎月企画する。04年〜音と動きのZoyd
Logueシリーズを毎月企画。04年〜音と動きのNaked
Gearシリーズ-Dyad
improvisationを毎月企画する。
公演情報などは、http://www.geocities.jp/kazenomaijuku/
2005年「劇の宇宙」のためのインタビュー
神戸のライブハウスなどで、ほぼ毎月、公演をプロデュースしている。音と動きのソリスト二者によるデュオMagical Dance Gear、複数のアーティストによる集団即興Zoyd Logue、ソリストの独立した即興バトルNaked Gearと、その性格によっていくつもに分かれている。中でもZoydはランダムに選ばれた数字によってパフォーマーの動きや出入り、影響関係が厳密に定められ、ゲームのように流れることになっている。
−即興の中にけっこう厳密な決めごとがありますね。それって、成立する上での事前のきっかけなんですか、それとも進行中のルールやストーリー?
角(S) ダンスって、一人の人間から動きが生まれるということにおいては、必ず対象を必要としますよね。それは、最初から自分の主体性というものを出そうとしてるってことでしょう。そうだとしたら、最初からきちんと作ってまとめられた作品のほうが力があって、世界として単純で美しいはずですよ。Zoydの場合は、複数のアーティストが主体性を出し合うことになるから、バラバラになってしまう可能性もある。そこでお互いが同時に存在しているということ、その中で自分が踊ることの楽しさを感じながら、お互いが主張しあうことを少なくするための仕掛けなんですよ。
−それは抑制するわけですか、それともそれは条件であって、それを課すことで逆にすごいものが出てくることを期待してるんですか。
S 期待してる。というのはね、与えられた数字によって、相互の強弱という関係や演奏するかしないかというタイミングが定めらるわけなんだけど、定めればイレギュラーが起きる。音楽でもダンスでも、当初の組合せからどんどん外れていく。すると、これまでの経験から言って、面白くなるね。最初の約束通り、みんなが数字の意味をとってるだけだと、なかなか生きてこないんだけど、演奏や踊ってる間にどんどん狂ってきて、そこからまた順か逆かってことで溝やずれが出てくる。そこが、面白いんだよね。
−ずれや溝を生じさせるために仕掛けを作る…なんとも遠回りではないですか。
S 頭のいい人は見通しを立てて、その目的に直接的に向かおうという努力を常にしているだろうけど、それってどうしても均一化するよね。それってやめたほうがいい。いろんな人がいろんな経験を持ってて、結局どこかで集まったら、何となく一緒になるじゃない。誰かがリードしてるわけじゃないから、ずいぶん回り道で時間のかかる方法だけど。人間って、動物が敵味方を嗅ぎ分けるように、生活しながらにおいみたいなものを感じ取ってるよね。でも動物とは違って、いろんなことをオブラートに包んで表現する。相容れない者でも、ぎりぎり許せたりするのはなぜだろう。そこにね、人間が回り道して見つけたゆるやかな目的みたいなものがあるんだと思う。それって、一人ではできない。いろんな人間がたくさんいて、初めてそういうことが見えてくるんだと思う。
−異なる個性が集まって、なお即興が成立する要件って、どんなことなんでしょう。
S 自分で何かのスタイルを出したり、動きを作ってたものを再生したりするのとは全く違う、むき出しの自分っていうものを出すこと、構えないことね。ぼくと音楽の人しかいなくて、そこに何人かのお客さんがいる、そこに柔らかなコミュニティができていて、お客さんもぼくに期待しているわけではないけど、知ってるから来た、っていうぐらいの感じ。
−いや、期待してますよ。
S (笑)いや、あんまり期待されると困るんだ。あんまりがんばらないぐらいで、その場所とか時間を丸ごと自分で感じられるぐらいのスケール。「感じ」が残るような、それは開かれてるっていう感覚なんだろうけど。
−特に即興を重視して連続公演を始められたのは、ここ十年ぐらいですね。
S 音と動きの即興を本格的に始めたのは震災からだね。自分の問うべき主体性、同時に自分が対象とする主体性、つまり相手の主体性というものに対する喪失感というかな、それに自分の中で気づいた時に、作品を出すということに不安感を持つようになった。自分がそれほど必要とされてるだろうか、自分で勝手に思ってるだけじゃないか。それで、ぼくは自分を繕わない、基本的に音と動きのライブだけにしよう、信頼される限りこの身体でその場所へ行く、そうなった。多くの人が平然と死を迎える中で、なぜぼくは作品として死を物語るのか、ということだよね。死という現実は至って事象的だから、それを時間を置いて物語にするのではなく、今生きているありようそのものがテキストになるようなライブな関係を作れないかとなった時に、過去として物語るのではなく、今から共に作るものとして、同じ場所、同じ時間を共有することが重要だと思ったわけ。Zoydにはその可能性があるんじゃないかと思ってるんだけどね。
BODY MEDIA MIX LAB 環境のホモノイズシリーズ
夙川のBARTON HALLという小さなホールでほぼ毎月、角正之のプロデュースによるダンサーとミュジシャンのコラボレーションが開かれてきた。7月21日には北村成美の公演が企画されていたが、その朝、ホールの支配人である森脇氏が急逝され、中止となった。それから約一ケ月、8月18日に角がシンセサイザー+振動装置の泉川ピンタと公演を持った。一連の公演は「BODY MEDIA MIX LAB 環境のホモノイズシリーズ」と題されている。
ステージには白い布が四囲から床をなめるように張られていた。開演前ぼくは、これは地面を二重化する仕掛けだと思った。ダンサーの足の接地面が布で覆われているということについて、世界の二重性とか、デュシャンの言う薄膜とか、いろいろと難しいことを考えていた。確かにそれもあっただろう。しかし、実際に角が動き始めると、布が滑って踏んばりがきかないことがわかる。空間の二重性やら平面の覆いであるより前に、当り前の動きを妨げるものとして存在している。ぼくたちの理屈っぽさをすくい取るように、何度か角の足もとをすくっていた。地面がさらわれていた。
もう一つの仕掛けは、泉川がセットした振動装置である。音が波となってホール全体を揺らし、からだが震える。からだが外側から動かされ、いつかそれが感動となって心が動かされている。これは不思議な経験だった。
それはまるで、角の厳しい視線を持った彫りの深い美しい表情が神々しさをまとって客席に送ったアウラの震えのようだった。名状しがたい一連のダイナミックな動きが、王のような威厳を湛えようとする。しかし最後にはすべて細粒に帰し、「まがいものの神」と歌われジョークとして片付けられるという構成をとる。ここで提示された終結について、一つの二重性として宙ぶらりんにしておけばよいのかも知れないが、この処理については、何とももったいないような気がした。神を持たないぼくたちのかなしみでもある。(「PAN PRESS」掲載。1998)
SEVEN COLOR
1998年2月28日
平田賀名世、進千穂、上田喜美、横川知知、松井淳子、玉田順子、麻生真弓の7人が各自の作品を2つずつ持ち寄る形の合同公演。
目深に帽子をかぶった麻生と平山裕子の「うしろの正面だあれ?」は、2つのドアを上手く使って、小洒落たパントマイムの佳品に仕上がっていた。斜めリフトなど身体を使った遊びも上手い。後半で無音になったときに動きをもっと大きくして、ダイナミックに見せるような形にすればよかったのにと思った。6分程度の短い作品とはいえ、その程度のメリハリは欲しかった。
進千穂は、冬樹ダンスヴィジョンの主要ダンサーとして、また西陣北座での充実を記憶していたので、かなり期待していたのだが、作品「Vein」を前半・後半に分けた形となった「pendulum」と「explosion」では、なぜか像を結び切れないようで、残念だった。続けて上演したほうがよかったのではなかったか。ショートブーツ、メトロノームなどの小道具の使い方は印象的だったし、中でもメトロノームが時を刻んでいるにもかかわらず動きはアッチェレランドされていくという点については、非常に面白かった。前半の進と上田喜美のデュエット「pendulum」では、やや二人の間の空気が、シンクロしていく必然性に乏しいように思った。複数のダンサーが同じ動きをすれば、確かに作品になるのだが、だからこそそこにはなぜ二人が同調しなければならないかという必然性が求められる。二人の腕が同時にしなうことで風が起きる。舞台の上で風が起きるためには、風が待たれていなければいけないのではないだろうか。全体にシリアスな何ものかに向かう方向はよく出ているのだが、それが何に向かうのかと追おうとするとはぐらかされてしまう。それをまた一つの魅力にすることもできるだろうが、それは意識されていないようだ。「それらしい感じ」ではぐらかされてしまったようで、ちょっと物足りなかった。
横川知知の「昨日の夢」は、恐竜の被りものを着けた小咄なのだが、動きがシャープで、色ものにとどめるには惜しい。幕間の7人全員による「七福神」(?)が色ものとして絶妙だっただけに、バッティングしてしまった感じで、その点でも惜しい。
他には上田喜美「他空間」、松井淳子「EMPTY」が面白かった。
全体には、ダンススタジオの発表会の雰囲気が半分以上といった具合で、「よく動いている」ことが評価の第一の基準となるようだった。だから観客席からの「掛け声」も威勢よく、奇妙な内輪意識がいたたまれない。
族長の足袋
また、9月22日に大阪・千日前のTORIIホールで開かれた族長の足袋の舞踏公演「蹄と簪」では、そこに執拗に展開される日本の土着、根源的なものに、やや辟易した。
主宰で元「大駱駝艦」の海田勝が「泥の中に足を踏み入れたときのズブズブという感触を大事に踊っていきたい」と言うような感触は、もうぼくには共有できない。ある種の舞踏における土着や民族の情念の表現は、ぼくたちとの共通部分をどんどん狭めているし、舞い手たちにとっても、文化人類学者が採集するような種類のエキゾティシズムとしてしか存在していないのではないか。
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