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北村成美、銀幕遊学◎レプリカント、金満里、黒子さなえ CRUSTACEA

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加賀谷早苗、マーティン・カスナー Ca Ballet栗棟一惠子 クレア・パーソンズ  GOZAZOO 小林智恵CDT(コンテンポラリー・ダンス・トライアル) コンドルズ

加賀谷早苗トモエ静嶺と白桃房

加賀谷早苗は<トモエ静嶺と白桃房>の若いメンバーだが、彼女が集めてきた同じく若いメンバーたちは、おそらくは舞踏のBの字も知らない/加賀谷以外のメンバーにとって、舞踏は初めて知る異界のような身体表現の通路であったに違いない/彼女たちからぼくが受けた最も大きな希望は、舞踏が今も生きているということだった/加賀谷も含めた彼女たちにとって、腰を落とした歩み、突如顔をクシャッとさせる変貌、といった舞踏のメソッドが、それを身につけることによって、少なくとも彼女たちの人生にとってよいものであったことを確信できたステージだったということにおいて、重大な意味を持ちえた/ぼくは舞踏の現在及び未来についてはあまり楽観していない/土方の嫡流を以て任じている白桃房について、ぼくは何回かの公演でずいぶん魅力を感じている/それでもその魅力が土方の残滓のようで、それが現在にとって何ものであるかを自らの中に位置づけるのは、やや困難だと思わざるをえない/加賀谷が再びなぞったのは舞踏のはじまりであった/舞踏のメソッドが既存のものとしてではなく、全く新しい姿で現前する/それにはラバーのピンクのスカートや純白のブラジャー、あるいは全裸という若いエロスが必要だったことを知らされる/彼女たちのエロスを帯びた身体がまさに「一本の樹となって空の大きさにまで繁茂していく」/そのように朗読される言葉たちはトモエ静嶺に与えられたエチュードだったというが、与えられた言葉を全身で素直に受け止め、そしてすくすくといっしんに伸びてゆく肢体が美しく感動的だった

  加賀谷早苗らビデ・ブ・バイブ・プロジェクト(1031日、明大前・キッド・アイラック・アート・ホール)「そこに一本の樹がのびた」(JAMCi '96.2


マーティン・カスナー

マーティン・カスナーというオーストラリアの男性ダンサーの「HE(Legless Lizard)」は、ユーモラスなのと神経症的なのとの間で、どちらに重きが置かれているのかわかりにくい作品だった。それは決しておとしめて言っているのではなく、そういう宙ぶらりんな感じが作品の多層性としてうまく成立していたと思う。ただし、この作品には言葉が多用されていて、ものすごく早口でところどころ小さな声で語られていたので、意味がほとんどわからなかったのだが、その言葉によって生み出されていたドラマが見えてこないのが、作品を享受する立場にとってはおそらく致命的に不利だったと思われる。バックに使われるモノクロの上質な写真についてもそうだ。動き自体はそうスリリングではなかったので、こちらの英語力を棚に上げて言うのだが、作品の提示のしかたについて、難しいものだと実感させられた。アジア・コンテンポラリー・ダンス・フェスティバル Bグループ  20011026日 トリイホール

CaBallet

  同じ日(2004.5.23)に栗東芸術文化会館さきら小ホールでは、CaBalletの「カレイドスコープ」が上演された。これは北村成美が構成・振付した4人のバレエダンサーによる、
「白鳥の湖」を再構成というか、切り刻んだような作品。以前「シンデレラ」も観たが、小学校などで児童に親しくバレエを楽しんでもらおうという目的で、上演時間は
短く、衣裳やセット、装置、照明、人数なども極力抑えている。それによって率直に言うと、やはり多少は貧相な感じがするのも否めないところではある。しかし、こと
さらにわかりやすくすることを避け、むしろ再構成の過程で元の作品のイメージや先入観を打破しながら魅力的な部分は強調するような処理を行うことによって、一つ一
つのシーンに情感はあふれていたし、結果的には作品が螺旋のようなうねりを獲得しようとしていることを評価したい。

(PAN PRESS 2004.7)


Ca Ballet、藤田清香「僕の中の君」

藤田は4歳からバレエを始めて、今は大阪芸大の院生。西野あい子とのデュオ。

Ca Balletは、バレエの経験豊かな水野宏子、木戸麻矢、安那瑞穂の3人が、北村成美の振付・演出で発表するというユニットで、トリイホールでは初めて、トウシューズを履いた公演となった。

藤田の作品では、ユニゾンがきれいで、見ていてとてもエキサイティングだった。ちょっとコケットリーが勝っているところもあるが、見ていて楽しいことには違いない。トリイホールのような空間の取り扱いについては、まだ少し不馴れなようだが、それも不器用そうでかえって好ましく思える。バレエのテクニックをじゅうぶん見せながら、何とかそうではないもの、その向こう側の世界を探っているようだ。そのような世界があるのかどうかは知らないが、2人とも勢いのある強い視線をもっていたので、頼もしい。

Ca Balletの方は、藤田に比べれば若干年季も入っていようし、北村の手が入っているからには、一筋縄ではいかないことが予想された。あえてトウシューズを履くっていうのが、何だかすごそうだ。喧嘩売りに来てるみたいに思える。舞台中央に置かれた3足のトウシューズ。そこへだるそうに入ってくる3人。競争みたいにシューズを履いて、ウォーミングアップがいつの間にかトウでリズムを刻んでいて、「ドラミング」みたいだ。3人とも、ユーモラスでバタバタしててみっともなくてリズミカルで美しい。ロックやシャンソンをバックに3人それぞれ踊るのだが、うまいのだが妙に態度が大きく、ヴァンプっぽい感じがするのが、ひじょうに面白い。

この作品では、トウシューズを履いて踊ることの美点と大変さと滑稽さがいろいろな形で出てきた。きっと彼女たちは小さな頃からバレエを続けてきたのだろう。安寿ミラにインタビューした時に、彼女が「小さい頃から、楽しいことも悲しいことも、全部ダンスと一緒にあったから」というようなことを言ったのが思い出された。最後にトウシューズでのゴーゴーという、たいへん珍しいものを見せてもらったが、これはある意味ではひじょうにセンチメンタルで運命を感じさせる表象であった。彼女たち自身がトウシューズそのものであることと、それを彼女たちがきちんと認識していることを、しかもチャーミングに表わすことのできた作品だったと思う。

そしてこのことは、トウシューズだけでなく、様々な事物に適用できることは言うまでもない。ただし、彼女たちにとってのトウシューズに匹敵するほどのものをぼくたちが持っているかどうかとなると、はなはだ心許ないが。(DANCE CIRCUS 200172,3日 トリイホール)

栗棟一惠子「THE WALL

以前神戸のCAP HOUSEで見て以来、久しぶりに栗棟のダンスを見た。声や舌打ちなど、口から出す音をBGMとして使うのが特徴的で、問題は身体と音の間の距離をどれだけスリリングに自立的に展開できるかということだと思っていた。その後小さなギャラリーで定期的に公演を打っていたようだ。

まず、シャープな外見をもっているのがいい。細いということもあるが、顔の彫りが鋭角的で、シルエットに力がある。つまり動きの中で瞬間ごとに作られる型が美しいということで、それには「da」という声がいいアクセントになっているが、そのアクセントによってシャッターを切るように動きが切り取られ静止するようでもある。動きをどう流すのかな、と気になったところだ。立ち方など終始堂々としていて美しいが、ちょっとナルシスティックに見えるところと、ポーズの作り方がやや平板に思えるような気がした。

ところが続いて、「ダディドゥ…」と歌うような声になってくると、ストレッチをしているようなリラックスした空気になり、動きに不思議な流れが見え始める。声が身体の内部からわき上がって流れてきた音楽のようで、また時折脚をパンと叩く音もいいリズムになっていた。自分の中からわき上がる動き、そして音や拍、それらにじっと耳を澄ますことから、美しいもの、激しいものを汲み出している。緊張感の高いステージだった。(DANCE CIRCUS 200172,3日 トリイホール)

クレア・パーソンズ ソロダンスパフォーマンス 2000815日 トリイホール

 ストックホルム出身の女性ダンサー、クレアの4つの作品。全体を通じて、このような動きは見たことがないなぁという、一種の違和感あるいは新鮮な驚きをずーっと抱いていた。動きについてだけでなく、センスというか感覚、ユーモアのポイントについてもそうだ。当日のプログラムに「遊び心」と解説されていることについて、そのシーンがそうであることは頭で理解できるのだが、笑いのポイントはずれていた。たとえば世界初演である「Duck Walk」という3つ目の作品で、クレアが人形みたいな動きをしたり、日本語で「ちょっと、君」「わかんないな」「おなかすいた」「わーん」などと言うのが、どのような前後関係、意味を持っているのか汲み取れず、きっと笑うべきシーンなのだろうが、そのタイミングを外してしまう。そんなある種の遠さが、不思議な焦りを最後まで抱かせる公演となった。

 クレアの動きは、ダンスとして卓越した動きというよりは、パフォーマンスとして動きの意味を露わにするためによく整理された表現だったといえよう。時折それは手旗信号のようにも見えたりするのだが、奇妙な硬さと、ヒジから先の動きが印象的だった。強く明確さを求めているようでいながら、それが何であるかはわからないという、不条理な志向性をもっている。これがクレアの表現の芯ではないかと、実は理解できなかったということを自己弁護した言い方のようで少々不本意でもあるのだが、そのように思っている。

 動きと意味が巧みに関節を外されているのとは逆に、動きと音楽(サラ・エディン)は非常に親しい。それが最も露わだったのは、最後に置かれた「In Blue」という作品で、サラがヴァイオリンでクレアと正面から対峙する、少し愉快なものだ。古い写真のスライド投影に始まり、ニジンスキーの牧神のような格好をしたクレアが青い膜の向こうに現われる。吊り下げられたヴァイオリン、フェンシングのような格好、コックのような高い帽子をかぶってのサラのスピーチ、ツァラの「ダダイズム詩の作り方」の朗読、などと脈絡のない流れでありながら、サラのヴァイオリンに合わせて弾き真似をしてみたり、リズミカルなメロディに合わせた動きをとったりと、音楽が、そしてパフォーマーとしての音楽家がずいぶん作品に大きな位置を占め、時にはリードする。

 意味がつかめないこと、ユーモアをはらんでいること、音楽との親しさ、硬く明確な動き……これらの要素や断片的な印象から、クレアのドライブしない身体は、かなり知的な構成によって作品になっているということがわかる。プログラムに記載されていた、ベケットの影響、カッティングエッジユーモア、キートン、下敷きにされている詩や演劇などの要素が理解できれば、もっと作品の世界に親しめるだろうと、残念に思った。


GOZAZOO第2回公演「Dance Performance2001826日 クレオ大阪東

 案内のハガキにもあったように、「ジャズ・モダン」と呼ばれるジャンルで、3人のメンバーを中心に、麻生真弓、永井喜子、古谷恭子というように、「踊れる」ダンサーが参加。テンポのいい、スタイリッシュなステージとなった。作品を創るということについては、まだ少し寄せ集めのような印象もあったが、その中から、今の自分自身の姿を見つめ、大切にしていこうという祈りのような思いが伝わってきたような気がする。とてもナイーブではあるが、踊りを続けてきたこと、踊り続けることについて、彼女たちがこめている思いがストレートにあらわれていると思い、好感を抱いた。

(1) 兵頭ますみ「歌う」

この日この回の1回公演とは思えないほど動きがなじんていて、まずとりあえずカッコイイことに目を奪われた。オープニングとしては成功だ。

こういうジャズ/モダンを中心に置いたダンスを見慣れていないので、何をどう見ればいいのかやや戸惑ったが、どうもエモーショナルな動きの大きさと、スタイリッシュな美しさを見ればいいように思えた。そして、初手からそのように見どころを押さえさせてくれたというのは、どのようなジャンルであれ、見せ方としてよくできているのだと思えた。

(2) 延田愛子「自分」

BISCOのメンバーでもある延田愛子の作品ということだが、前半はやはりひょうきんでユーモラスな感じが客席の笑いを誘った。顔を覆って泣く真似をしたり、わざと手を大きく振って行進してみせたり、ねじまき人形かロボットのようにぎこちなく動いてみたり、とにかくメカニカルによく動いているのに、どこかすかしているような、微妙に外した空気をもっている。これは一種の特異な才能ではないかと思う。間にはちょっとカッコイイ動きも入れながら、チープなムードミュージックに乗って、やっぱり顔を覆い、泣き、崩れる。

ダンサーそれぞれのソロのパートがあるのだが、どれもカラーが違っているのがいい。延田が残って顔を覆って屈み、鋭く左腕を叩いたかと思うと、肘を大きく後ろへ引き、両手で左右の空間を押した。この一連の動きはとてもシリアスな印象を受けた。何か、自分を持て余していて、どうしたらいいのかという戸惑いを抱えながら、自分を包む空間にあらがっているような、強い動きだった。何かを振りきるような動きにしても、身体の各所を押さえる動きにしても、自分が自分であることを、身体が身体であることをと言ってもいいが、激しく危機的に守ろうとしているような強さを感じた。そう思わせたところでの音楽(ピアノ)の入りも的確だった。

後半の延田のソロの高揚を用意したのは、前半にちりばめられた、いくつかの感情の予感のような動きの断片だった。「ユーモラスでひょうきん」やら「自己の確立」やら、様々な自分のありようを見せる上で、感情または感情を生起させるものの断片をちりばめておくのは、有効だったと言えよう。「あれっ」「おやっ」といった小さな気づきの集積によって、思わぬ大きな感情のほとばしりが生まれるというわけだ。

(3) 中山陽子「眠り−ひと駅ぶんの眠り」

吊り革につかまった延田がこちらに背を向けていて、カミ手から中山が後じさりして入ってくる。中山が左右に振り子のように揺れているのが、滑らかでいい動きだなと思う。はたして、吊り革の女の見ている夢(サブタイトルにある通り)のような形で舞台は展開していく。

左右に揺れることによって、中山は現実味を捨てることができていて、シェイクスピア劇に出てくるパックやエアリアルのように見えてくる。延田の中から何か引き出してしまって、延田が倒れてしまうところなど、いたずら者の中山がすべてを操っているようで、なかなか愉快だ。

延田は他のダンサーの動きを真似てついていくように動く。幼年時代に何か大事なことを教わっている感覚がよみがえるようだ。電車の中で吊り革につかまったまま睡魔に襲われるという設定なようだから、眠りに落ちたと思ってもすぐに「カックン」となって現実に引き戻されるはずだ。そんな瞬間的な光景がうまくあらわせているように思う。

中山の動きは左右の振れと上下の沈みがひじょうに印象的で、魅力的だったが、後半やや退屈になりかけた。結果的には少し単調でメリハリが効いていなかったのかもしれない。自分で自分を振り付けるのは難しいということでもあるのかもしれない。豊かな顔の表情と高い運動能力をもっているのだから、表現の芯をきっちりと把握した作品が見たい。


小林智恵

Chie Kobayashi Dance Performance

 19981030(金)、振付=小林智恵。於・大阪市平野区、全興寺。

 自分の中での作品の骨組みはしっかりしているようだが、それをじゅうぶんに見せる方法はまだ手探りかな、という感じ。全体の作りにしても、構成はできているけれども、瞬間瞬間の指先に神経が行き届いているかと言うと、ちょっとまだ物足りない。しかし考えてみれば、そう思わせたということは、動きそのものは相当なレベルに達しているということで、小柄ながら長い手足が美しく、腕の伸びの冴えや背中の反りは魅力的だった。

 前日は寺の庭を使ったそうだが、激しい雨にたたられ、この日は急遽本堂で。祭壇の前に黒いシートを敷き、その両脇の畳の上に座布団を敷いてぼくたちは見る、という格好。作品自体の構成も前日とずいぶん変更されたそうで、舞台監督の藤村に聞いたのだが、この日3時間ぐらいミーティングを行って、全体を洗い直したとか。

 祭壇両わきのろうそくに火が灯されている中、まずKobayashiがゆっくりと現われ、祭壇の前に肘をつき、横になる。生とか死とかいうよりも、眠っているように見える。時々ずりずりと動いたりするのは、本当に眠っているようだが、もちろん喩としてみれば、生誕以前のさなぎのような状態をあらわしていたはずだ。そしてKasamatsuが祭壇前のステージを囲んで立ててあるろうそくに、火を着ける。雨の音の中、娘は眠っていて、女が灯りをともしている。そのように始まった。

 中盤はゆっくりとした絡み。Kobayashiに生命を吹き込むためにKasamatsuがリードして動かしている、という格好。速く動けばサイトウマコトのところがやるような、コンテンポラリーなコンビネーションになるところを、スピードを殺して動いたわけで、これはかなりテクニック的に難しかったのではないだろうか。ここのところの動きの見せ方がもう一回り洗練されたら、この公演はすごいものになっていたと思えたのだが。

 スピードを殺すことで、二人の女性の絡みがいくぶんか湿ったものに見えたのが、ひとつの面白み。これをエロスに向かうもの、エロスから来たものとして見るか、そういう要素のないものとして見るか、少々迷うところだが、この作品の前半を生誕として見るとするなら、中盤を思春期的な部分としてよい。女に成長を促すためのいくつかの儀式、繰り返しになるが、これがもっと滑らかに迷いのない動きだったらよかったのに。

 そして二人は離れ、Kasamatsuが庭へ降り、激しい動きをとり、手水の銅の蓋を太鼓のように叩く。突然の変化にやや驚くが、少女だったKobayashiが独り立ちしつつあることの喪失感の現われと見れば、やや短絡的すぎるだろうか。この音に、Kobayashiは時折反応する。Kasamatsuは足で地を打ち、うずくまったかと思うと、奇声を発して門のほうまで走って行ってしまう。そしてKobayashiが一人で踊るが、すぐにKasamatsuが戻ってきて、階段の上と下とで、鏡のようなシンクロに入る。ここではKobayashoのソロをもう少し長く見せてほしかった。ここでのKobayashiの腕の伸び、背の反りなど、周辺のビルの蛍光灯の月光のような青い光に照らされ、美しかった。

 二人は雨の中、庭へ降りて、紅白の花びらが敷き詰められた楕円形の中で、花びらを散らして踊り、転がる。「花びらを散らす」というのは、まさにそういう言葉があるが、そのまま女性の一つのステップとして受け止めていいのかどうか、また多少迷ったところ。全体の流れから、そのものではなくともそのようなことであると考えたほうが自然だと思われる。そしてKasamatsuはもがき、苦しみ、動かなくなり、Kobayashiは戻ってきて、観客を鋭く見つめ、下を向き、手の甲に付いた赤い花びらをじっと見せるように手を組んで、エンド。

 舞台監督の藤村氏によると、あんまり宣伝しないで下さい、と言っていたということもあって、観客は少なく(十数人)、本人も自信なげな部分はあったが、これがほとんど最初の作品だということで、ある着実な可能性は感じられ、またいつか、今度はムーヴメントに重点を置いた短い作品を見せてほしいと思った。

CDTContemporary Dance Trial

1997117() 京都の関西日仏学館・稲畑ホールで、CDTTAPTriangle Arts Program)の共催によるダンスをめぐる試み。TAPは、セゾン文化財団とアジアン・カルチュラル・カウンシルの交流活動で、アメリカ、インドネシア、日本を巡回している。

 山崎広太のステージでは、重さではなく鋭く差すような情感を差し込んでくるといった、見たことのない動きの連続にまず驚かされた。身体の撓み、掌から肘にかけての型のような強烈なフォルム……わざと中心線を自在にぶれさせることで、不安に近い驚きが生まれた。動きの特異さだけで感動させられる数分間だったが、ぜひ長い作品を見たい。
 スカルジ・スリマン(インドネシア)は、冒頭で地面がせり下がるのか身体がせり上がるのかというような不思議な錯覚に近いものを感じた。相撲の土俵入りのような型の定まった、重心のしずまりの美しい身体だった。型ということでは、掌の形、手刀のような使い方もまた鮮やかだった。
 坂本公成の振付で黒子さなえが踊った作品は、ぶら下げた手を足でぽーんと蹴って動かすといった振り子のような簡単なきっかけから、思いのほか豊かな動きが出てくるという、単純で明快なコンセプトに基づいた好感の持てる作品だった。ただ、そのようなコンセプトのシンプルさにとって、黒子の豊かな、豊かで鋭すぎるほどの表情がまったく邪魔ではなかったとはいえないように思う。また、作品としては、時間的にやや長すぎたようにも思う。
 里見綾子の二つの作品については、必ずしも納得していない。はじめの作品については、ダリの精神に沿ったものであることはよいとして、なぜダリの画像をスライドとして提示する必要があったのか、理解できない。スライドがなくても、充分にダリ的ではあったし、もしそうでなかったのなら、作品として提示する必要はない。次の作品については、何らかの追いつめられた、危機的な人間をあらわしているということが伝わっただけでもよしとすべきかもしれない。いずれにせよ、どちらも、スナップショットとしての面白さ、切り口の妙を見せてくれはしたものの、それを構築していく力を持っているのかどうか、心配だ。一度長い作品を見てみなければ、と思う。
 ナンシー・スターク・スミスの作品は、いわゆる精神的で、ある部分での東洋的・冥想的な作品だったが、それだけに、やや時間が短かったような気がする。彼女の表現が本当に深いところに通じているのかどうかということについては、もっと長い時間彼女を見ていないとわからないだろう。始まって、こちらが居眠りをしてしまって、目覚めてもまだ同じように動いていた、というような緩やかな時間の流れの中で見てみたいダンサーだ。
 Leeについては、捨て鉢なユーモアが強く攻撃的で、いつもながら溜め息ついてしまう。改めてチラシを見てみると、「石である」という自己定義が自由であるのか拘禁されたものなのかが、やや不分明なような気がする。作品を見ているときには、囚われた身体、不自由さ、虐げられたもの、といったふうに受け止めていたように思うのだが。
そして最後に、ナンシー、スカルジ、山崎の3人の即興があって、日仏会館の夜は更けていった。


様々な意味での<現在進行形> ダンスをめぐる冒険−Contemporary Dance Trial #3

199838() 於京都市中京青年の家。5つのグループ、個人による作品。

 まず、ポートランド出身のセス・ヤーデンによる「My body is Pleased」。厚い和紙のような風合いのある白い作務衣を着て現れた。初め、豆電球を身籠るように懐ろに入れて動いていたのが、やがて懐ろから電球を出し、天井から大きく振り子のように揺らす。その後も、ステージの各所に置かれた電球の光に絡むように踊る。そのように、表面上のコンセプトは一貫して流れているように見えるのだが、そのコンセプトメークに至るモチベーションのようなものがはっきりしない憾みがついてまわる。光を身体が隠したり、逆に照らされたりすることの面白みがないではないが、光を求めるというステレオタイプや、光=神々しさという措定に対する楽観的な思い入れがあるように見えてしまい、やや苛立たしい。最後の、水盤にロウソクを浮かべて炎のゆらめきとシンクロする形で大きく動くところの動きが印象的だっただけに、もう少し動きそのものに重点を置いたほうが魅力的だっただろうに、と思う。

 Popol Vuhで独特なファンシーな世界を見せてくれた徳毛洋子と竹本洋子の「スケッチ」は、小動物やお姫様の出てくる冒険たんのような楽しさの中に、身体の基本的な動きの美しさや奇妙さをちりばめて、ファンシーの中にカラッとした爽やかさのある、いい作品だった。またいつか、もう少し長い作品を見たい。

 福島マリコの「SLEEPWALKER」(夢遊病者)は、ややきわどい面白さが随所にあった。異常に長いフェイクファー(?)の襟巻きで上手奥の扉から下手に引っ込んだかと思うと、上手扉から、今度はその襟巻きをお尻に付けて四つんばいになって現れる。そして足は動かさずに両腕だけでその場で回転し、尻尾をとぐろ巻きにしたかと思うと、尻尾を外してピョンとジャンプして立ち上がる。そんな無茶なユーモラスなシーンが残る印象の芯になる。映像+照明の処理も、唇のアップを映すビデオや、砂嵐(放送終了後の、よく「砂漠の砂嵐」とか言われる灰色のノイズ)を福島に当てた上に弱いスポットを当てる効果が面白かった。ただ、じゃあそれらが作品全体としてどう一貫したかと改めて問い返すと、所詮は夢遊病者のことですから……と軽くかわされてしまうのだろうか。

 静岡県舞台芸術センター(SPAC)から長谷川哲士の「伊達や酔狂」は、志ん生の「強情灸」をバックに流しての即興。落語を聞こうとする耳と、ダンスを見よう(読もう)とする眼が分裂する。これは岩下徹の「ラジオで踊る」でも経験したことだったことを思い出す。落語を流しているからといって、その情景のいちいち(灸を据えるところとか)を再現するわけでは、もちろんない。志ん生の噺の底にあるテンポやトーンと微妙にシンクロしているということが大きな眼目となっていた。ちょっと山崎広太にも似た、くねくねと軟性の機械のようなユーモラスな動きの楽しさを楽しむことはできた。一つの動きを作ることで関節や筋肉に生まれる抗力のようなものを増幅することで、次の動きを生んでいくというようなメカニズムが面白かった。

 池端美紀の「強い桃」は、池端の強い視線が印象に残っている。世界に対する焦燥のような感情の強さと、表層を覆うファッション性を同時に提出することで、双方の強さが増していたように思う。後半のキャットウォークの歩き方のような部分もよかった。様々な意味で強さを感じさせる作品だったが、それだけだとちょっと単調で、アクセントに欠ける。


199754日 「contemporary dance trial−ダンスを巡る試み」

 少々迷った末、京都のアトリエ劇研(旧・無門館)でcontemporary dance trial−ダンスを巡る試み」を見る。チラシによると、「従来の舞台芸術の枠にとらわれない実験的な試みを発表する場や交流の場が欲しい、様々な振付家・ダンサーの制作手法を知りたい、などといったダンサー・振付家の声から」生まれた場であるということ。

 これだけ読むと、観客という立場は入っていない。見る者(せいぜい、プラス書く者)でしかないぼくのようなものが見に行っていいものかどうか、迷ったのだ。

 だいたいダンスというジャンルは、踊る人と見る人とが、ほとんど重なってしまうのではないか。同じ阿呆なら踊らにゃ損なのだから、見る人は踊るべきだと、思いはするが。

 それはさておき、舞台監督のような人からも第一部は「創造過程の発表」であり、第二部は「試演会」だと言われると、どのような立場でこれからの1時間半を見ればいいのか、途方に暮れてしまう。

 第一部は、モノクローム・サーカスの「収穫祭'97−鷲あるいは太陽」、ダンシング・コミューンの「Happy Cancer 幸福癌」、森出の「思いを止めないあいだはどこかを経験している」の、3つの作品。上述のように、完成した作品として見ることは<禁じられて>いるので、なんとも言いようがないが、前二者は完成した作品としても見ることができるものだったように思う。完成作として提出された、以前に見た作品に比べて、すごく劣っていたわけでもなく、全然整理できていなかったというわけでもない。

 われながら中途半端なもの言いで恐縮だが、それは決して完成度が高くて、よい作品だった、と言う意味ではありえない。彼らが「これは完成した作品です」と言えばそれはその時点では完成しているということなのであって、ややシニカルに決定稿などないと言ってしまえばそれはもっともなことで、今さら声高に「過程です」と言われても鼻白んでしまう、というのが本音。ダンスはいつもtrialだよ、なんて言うのはちょっと大人げないか。

 森出(もり・いずる)は、完全な全裸で登場し、ちょっと宮沢賢司の「虔十公園林」の虔十のような感じで、引き込まれるような微笑をたたえてゆっくりと動く。それがどう展開していくのか楽しみだと思っていたら、一人の観客(女性)が席を立ってしばらくして、ちょっと唐突な感じで終わってしまった。一作品15分の予定だったが、10分もたっていなかったと思う。即興と銘打たれていただけに、一人が席を断ったことが何らかの影響を及ぼしてしまったのか、当初の予定だったのか、知る由もなく、知ろうとも思わないが、ある意味で(逆説的かもしれないが)面白くはあった。

第二部は鈴木優企画でダンスグループSuppeによる「2つの生き物」。ぼくのお気に入りの若本佳子らによる濃厚なLove Affairのような展開だったが、やや過剰さが鼻についた。エロチックな感じを出してみようとしていたのだろうが、ややくどくて、下品。


コンドルズ 

国際的に活躍するダンサー、近藤良平を中心に、男性のみ、しかも特異な身体とユニークなキャラクターを持つダンサーのみで結成されたダンスカンパニー。舞台衣裳は、原則として「学ラン」。比類のない圧倒的にハイスピードなシーン展開で、ダンス、映像、生演奏、演劇を緻密な計算のもと縦横無尽に使いこなすステージングは、開始早々、圧倒的な話題を呼ぶ。19981月には結成からわずか1年でTV神奈川、FM横浜後援のもとホール進出。翌993月には東京グローブ座に登場。東京グローブ座で上演された「太陽にくちづけV ビューティフルサンデー」は、連日の大盛況の上、作品はスカイパーフェクトTVで全編ノーカット放映もされた。そして2000年、1月に行われたニューヨーク公演では、観客からの絶賛だけではなく、かのニューヨークタイムス紙(2000.1.15)にも絶賛記事が掲載。さらに同年2月には神奈川芸術文化財団主催のもとフランス人音楽家パスカル・コムラード氏との競演も行い、話題をさらっている。

あまたの観客を魅了し、問答無用で熱狂と興奮の渦に巻き込んでゆく2000年現在、さらに破竹の勢いで躍進中のダンスカンパニー。それがコンドルズであります!

 京都の都心にアートコンプレックス1928という新しいスペースが生まれた。そのこけら落としに招かれたのがコンドルズで、題して「2000年ヴァージン」(19991212日)。主に学ラン姿の男性だけのユニット。近藤良平を中心としたダンスとしての楽しみもあるのだがむしろ男子校の日常−乱暴な昼休みとか、下校時の悪ふざけ、部活動の「宴会」の盛り上がり−が思い出されて、懐しかった。築70年という香り高い空間を十分に生かして、11人の出演者が目まぐるしく「いろんなこと」をやってのけて見せるのが、とにかく楽しい。余興めいた部分の時間のダレた流れも含め、ダンステクニック(のなさ)の見せ方など、カッコ悪いことのカッコよさというような美学がほの見えて、開き直りとアンチな気分が爽快だった。


Copyright:Shozo Jonen 1997-2004, 上念省三:jonen-shozo@nifty.com

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