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吾妻琳アンサンブル・ゾネ 伊藤キム、岩名雅記

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厚木凡人、有田美香子 アルティ・ブヨウ・フェスティバル、アルビン・エイリー、杏奈、イシダトウショウ岩下徹、インバル・ピント・カンパニー ウェン・ウイ H.アール・カオスENTEN大谷燠、尾沢奈津子(N-TRANCE FISH)大野一雄Op.Eklekt

厚木凡人

 1958,59年、舞踊コンクール第1位文部大臣賞を連続受賞。'65年、アントニー・チューダー東京公演に参加。翌年より'68年までジュリアード音楽院にフルブライト留学、メトロポリタンオペラ・バレエ、アメリカンバレエセンター等で学ぶ。'70年「噛む」、'71年「吐く」、'81年「裂記号1」で舞踊評論家協会賞を受賞。'75年パリ国際ダンスフェスティバルより招聘され、「裂記号2」でThree Mentionを受賞。82年アメリカンダンスフェスティバル、ザグレブ現代音楽祭より招聘され公演を行う。'89年スターダンサーズバレエ団の芸術監督に就任。ポストモダニストとバレエ団との組合わせは、当時の日本の舞踊界に衝撃を与えた。ポストモダニズムのアクセントがついた新しい作品は、バレエ団の発展に大きく寄与する。'93年同バレエ団退任後、「BONJIN DANCE COMPANY」を設立。
 '50年代のモダンダンスのダンサー、コレオグラファー時代、’70年代のポストモダンダンス運動の最先端時代、'90年代初期のバレエ監督時代と、まれに見る経歴を持つ。変化に富んだ経歴と、表現豊かな振付・構成力により、この3つの形式すべてを自由自在に融合させている。

身体の根源あるいはミニマルな豊穣
 東京国際舞台芸術フェスティバル'97Dance Selection'97。「裂記号」以来十数年ぶりに厚木凡人の身体の動きと、彼が創り出すステージを体験して、ぼくは彼の作品を見ることからダンスを見始めたことを、たまらなく幸福なことだったのだと改めて実感した。

 一言でいって、根源的だということ。厚木自身のソロ「10 Motions」は、深く重い堆積に立った人体ポーズ集のような、ミニマルゆえの豊かさを持つ作品だった。立って足の裏にかける重心の位置をわずかに変えてみることや肘から先を動かすことだけで、身体がどのように変化するかが美しく厳しく照らし出される。それが普段のダンス体験と異なるのは、そこから何か感情が呼び起こされるのではなく、空間の緊張を体感することだ。根源から発し、根源をめざしている。

 にもかかわらず、彼のステージは、実在のつっかえ棒を外すような奇妙なユーモア感覚に溢れている。厚木の真面目くさった椅子とのデュエット、スターダンサーズバレエ団の遠藤康行と厚木三杏による「Duo」でのパネルを使った優雅で滑稽なシーソー、7人のダンサーによる「窮屈な視野」のポリバケツのキャッチボールなど、それは主に小道具を使ったときに現れたように思うが、あるいは異物=他者とのコミュニケーションにおける何ともいえない居心地の悪さを仄めかしているのかもしれない。

 あるいはそのユーモアは、身体の、表現の滑稽さについての厚木独特の含羞の表現なのかもしれない。「Duo」のラストで、二人がバッハをバックにパネルを足で押し合うという部分がある。愛の交歓の表現として、実に美しく、しかもとんでもなく滑稽だ。そして溶暗の後、美しい愛のドラマのエッセンスを一瞬に体験したような心地好い疲労が残っているのに気づく。削ぎ落とされた果ての豊穣に、身は包まれている。

9/20、東京芸術劇場小ホール1)(「JAMCi'9712月号掲載)


有田美香子「ポウズ」

このダンサーは、先月の横浜STスポットとの共同企画「GO WEST!」でも見てよく動くいい身体をもっていると思っていたのだが、この日の作品のほうがずっとのびやかで、美点をじゅうぶんに出せていたように思う。

作品は単純である。リクルートスーツみたいな格好で出てきた有田が、上手の奥で右手をスッと上げて身体を鞭のように鋭くしなわせて下手手前まで出てくること、及びその逆の連続。しばらく続けて、少しパターンを変えて左右の動きになったり、太ももの裏をさすって足を上げて動いたり、地面とボクシングをしたりと、動きがランダムになってくる。

さて、これを神経症的と見るか笑いを取ろうとしていると見るかで、見え方はずいぶん変わってくる。これに続くシーンの動きで、頬と脇腹を押さえて何を見るでもなくこらえている感じが出たところから、ぼくはこの作品を神経症的な苦悩を対象化できるかどうかの危ういところ,と見たい。ここで見えたこらえている感じというのが、泣きそうとか、自分を失いかけている感じとか、ドラマ直前の激しさをはらんでいるように見えたことが大きい。

最後には地味なスーツから出た生足がどんどん朱色に染まっていったのも、生きている感じがしてドラマティックだった。彼女はそれでも徐々に麻痺し、目がイッてしまって、どこか向こう側に超えて行ってしまったようだった。そのようなプロセスを見せることができた、ということは貴重だ。(DANCE CIRCUS 200172,3日 トリイホール)

身体にとどまらないもの、あふれるもの

 アルティ・ブヨウ・フェスティバル(以下、ABF)が10回目を迎えた。1日に56作品が上演されるこの6日間は、日舞ありベリーダンスあり、モダンダンスありモダンバレエあり……で、「ごった煮」「玉石混交」という印象も免れず、今年も正直に言うとかなり観る者に疲労を強いるものではあった。

 今年のABFは、2613日と日曜日ごとに意見交換会なるものが催され、ぼくはそのコメンテーターの末席に連なることになった。事前の打合せで、冒頭に関西のダンスの状況などを喋れということだったので(どうもそれは脅しみたいなものだったようだが)、考えていたことがある。結局それは成り行き上、まとめて喋る機会はなかったのだが、ABFの6日間の作品を観た上でまとめて言うと、こういうことだ。

 ほとんどのダンサーは、よく鍛練された身体をそれなりに作品化して見せている。その見せ方に、たとえば東京や海外のダンサーと比べて物足りなさを感じるというような言い方をしたところで、あまり発展的な議論は生まれないだろう。

 あえて特徴的なことを述べれば、まず、京都のダンサーの一部に、ダンスそのものよりもダンスが共有される「場」を成立させることを重んじる傾向があるようで、面白く思っている。そんなことをABF5日目の夜に「泡−沫」を踊り終えた坂本公成(Monochrome Circusに言うと、京都という街でdumb typeのあとで何かしようとすると、どうしたってコミュニティのことを考えざるをえないではないか、という実に当を得たコメントが返ってきた。おそらく坂本らがコンタクト・インプロヴィゼーションにこだわっているのも、そういう一環として捉えられる。ただ、それが作品として提出されて、力を持っているかどうかは、見続けていく必要があるだろう。

 一方、神戸を中心として、身体の動きに思いを込めることを厳しく追求しているダンサーたちがいるようだ。河合美智子のソロ「花びらはゆっくりと海に落ちて行く」(振付=今岡頌子)は、特に震災に関連のある作品と明記されていたわけではないが、厳しく洗練された動きの連なりから、深い思いが伝わってきて、率直に感動した。おそらく震災によって引き受けてしまった思いというものは、特定の言葉に収まるものではなく、絶えずあふれてしまうものであるに違いない。だからこそ、ダンスでなくてはその重みに耐えることはできない。言葉にできない思い、絶えずあふれてしまうような思いが自分の中にあることに、半ば絶望した地点から始まったような作品だったと思う。

 また、ハイディ・S.ダーニングの「Ruby」は、震災で亡くなった母親の名をタイトルとしている。フラメンコ・ダンサーだった母親が、天国でも踊っているとしたらこんな踊りだろうか、という意味で「Mother's Dance」というメッセージが添えられた。時折フラメンコのポーズを取り入れながら、冒頭とラストに菩薩のような形を置くなど、スタイルを重んじて禁欲的に構成された作品だった。意見交換会でハイディは、エモーショナルな題材だからこそ、ドラマティックに表現するのは好まない、と言っていた。これもまた、エモーションのあふれを深くで認識したところから発する、痛切な作品だった。

ABFでは、他に上野智子「そして城壁の中へ」、由良部正美「ファントム」が傑出し、北村成美(構造計算志向)i.d.」が楽しかった。(PAN PRESS)

アルビン・エイリー・アメリカン・ダンス・シアター

フェスティバルホールでアルビン・エイリーのダンスを見る。1960年代からアメリカ、特にアフロ・アメリカンのダンスシーンをリードしてきたエイリーが遺したユニットで、いわばお勉強のつもりで見に行くことにしたもの。

 2B席とあって、一人一人の表情や筋肉の動きは見えないが、構成、フォーメーションを見るには悪くなかった。今日はAプロで、ジュディス・ジャミソン振付「リヴァーサイド」、ユリスス・ダヴ振付「ヴェスパーズ」、アルビン・エイリー振付「リベレーションズ」の3作品が行われた。

 冒頭の「リヴァーサイド」では、もっと動けるはずだろう、という苛立ちが少し。見事だがおとなしい感じで、弾けるような迫力はなかったが、幕開きの作品ではよくあることか。

 実際、次の「ヴェスパーズ」で、6人の女性ダンサーによるシャープで激しい動きを見ると、その洗練された動きに感服したが、それも練達という印象で、スリリングな感じはしない。フォーメーションも、もっと6人の複雑な絡みを見たかった。後半でややフィックスした動きが見られたが、そんなスリルを全体に味わいたかった。

最後の「リベレーションズ」は、初演1960年というから、それこそモダンダンスの古典となっていると言えよう。とにかくカッコイイし、ダンサーの組合せの形の美しさ、力強さと柔らかさの共存、信じられないようなスピード、敬虔さを感じさせる精神性の深さ……と、名作の迫力を満喫した。

翌日、ヤザキタケシとフェスティバルのアルビン・エイリーへ。ヤザキは8年ほど前にアルビンのところにいたらしく、その頃の仲間がメンバーで出ているそうだ。昨日全体を見ていたので、今日は双眼鏡持参、表情や筋肉の動きを見ようとの意気込み。「スィート・リリース」「ポーランドの踊り」「ファンダンゴ」「オーティス組曲」の4つの作品を見ることができた。

「スィート・リリース」は、トランペットのウィントン・マルサリスの音楽によるもので、彼のトランペットの音の官能性を相乗効果として活用した作品。女性ダンサーの筋肉の美しさ、エロチシズム、流れるようなフォーメーションの美しさに魅せられた。

「ポーランドの踊り」は、的確な音の捉え方、男女の間のいとおしみの表現の哀切。

「ファンダンゴ」は、エヴァンスとウィッターによる2人だけのダンスだが、ステージの広さを感じさせない。時の流れに楔を打ち込んでいくような印象の、すばらしい作品だ。

「オーティス組曲」は、時折物足りなさを感じさせるものの、結局ずっと見ていたいと思わせる迫力を持っている。

全体的に、見せられてしまった、そして魅せられてしまった、という、妙に受け身な感じのするステージだったような気がしている。(1997513,14)

杏奈

大阪に生まれる。 大屋政子バレエ研究所、モナコ・グレース王妃古典ダンス・アカデミーでバレエを学ぶ。アルピン・エイリー・アメリカン・ダンス・センターに留学中、モダンダンス、ジャズダンス、アフリカンダンスなども学ぶ。エリサ・モンテ舞踊団に入団後は、欧米各地で公演。1994年に帰国後、大阪を拠点にダンス指導と作品創作を始める。99年、拠点を東京に移し、ソロ作品などの創作活動を開始。坂本龍一「OPERA」に参加。現在、Zeroc(VANTEC)に所属。

 

「無表情黙々舞踊」

 722日 於・TORII HALL。普段はたいへん表情豊かで騒々しい杏奈が、無表情で黙々というのだから面白い。杏奈と尾沢奈津子が軸になって、硬さと柔らかさをうまく取り混ぜていた。しかし、全体として残る印象は薄い。その二人とあとの二人に、技術的な差なのか芸風の違いなのか、タイプに開きがあり、ちょっと拡散したような印象があった。

 杏奈自身の動きはみごとだった。長い眠りから覚めたようにゆっくりと身体を伸ばす冒頭からは、豊かな物語のような世界が紡ぎ出されるのかと思ったが、必ずしもそのような目的を持っていたのではなかったようだ。爬虫類のように地に這って見せたり、身体の回転が視力の幻惑につながったり、ちょっとしたおかしみを交えながらも、基本的には刹那に消えるキレの鋭い動きの集積として展開していたように思う。

 杏奈と尾沢のデュエットは速度と緊張感に満ちて素晴らしいと思ったが、4人になったときのコンセプト(物語的な意味でも、造形的な面でも)が今一つよく見えてこなかったようで、惜しい。ソロにおける彫り込み、デュエットにおける関係性の構築と、4人になったときの空間の把握・形成には、おそらく大きな懸隔があるに違いない。すべてのダンサーがすべてをオールマイティにこなせる必要はないだろうが、大きく困難な課題ではあるだろう。 

イシダトウショウ

「劇の宇宙」1999年冬号掲載インタビュー

 イシダトウショウと言えば、遊気舎の役者として危険な直線性を放っていたあの異様な視線や魅力的な台詞回しを思い出す人のほうが多いだろうが、彼は並行してZLVZX(ゼルヴゼックス)というユニットを結成、言葉によらない身体表現を繰り返し世に問うていた。

今イシダさんを紹介するとしたら、「ダンサー」ってことでいいんですよね。

イシダ(I) これをやるからそっちはしないとか、そういうふうには分けてないですけどね。

台詞があるとかないとか、あまり差はないですか。

I あまり考えてないですね。喋るかどうかっていうことが重要だとは感じません。言語活動って、音声だけじゃないですよね。それに音声だって、強弱とかリズムとか、表情を持ってます。それがたまたましぐさに置き換わってもいいわけですし、より雄弁なほうを選択していけばいいと思うんです。いつでも喋れるし、いつでも動ける、というのがいいと思うんですけど。

じゃあ、今度の公演でも音声としての言葉を使うかどうかというのは、前提としてあるわけじゃないと。

I 最初にルールを作るんじゃないです。

 そもそもZLVZXというユニット名自体、言語の恣意性(犬をイヌと呼ぶことに意味はない、問うてもしかたがない)に基づいたもので、何か特定のイメージを呼び起こす音ではないという。このあたり、大阪外国語大学でウルドゥー語を専攻したという彼の面目躍如である。言葉の音から任意に呼び起こされるイメージが、彼らのユニットのイメージとなっていくことを望んでいるという。

――作品を創る上では、イメージを積み上げていくほうですか。

I 最初から「これをやろう」っていうのは、ないですね。自然体っていうか。

――言葉のコンセプトから創っていくのか、動きを重ねて創っていくのか、そのへんに興味があるんですが。

I 両方ですね。動きから出てくる部分もあるし、言葉に触発されるものもあるし。その時自分が張ってるアンテナに引っかかってくるものから、そんな気がするんですけどね。「これ」というものがあって、そのために材料を探して歩く、というものじゃないと思います。何が伝わったかは楽しみですけど、何を伝えるかっていうのは、あんまり思わないですね。

 12月公演に向けて、構成・演出の久保亜紀子がシーンごとに詩やその他の言葉を提示して、ダンサーが相互にヴィジュアライズしていくという作業を進めているらしい。「イメージ・キーワード」となる断章というものを見せてもらった。その中にこんな一節がある。……未来を振り返る。恐らく----宇宙の果ては背後にある。言葉は創造的行為の現われであり一種の不死性である。いま、ここでは言葉から置き換えられた「なにか」が私たちに同じ夢をみさせている。

 ダンサー個々のイメージが異なってしまうこともあるのではないか。

I 生成文法ってありますよね。言語が言語であるための最低限の共通項があるとしたら、ダンスがダンスであるための共通項ってあると思うんです。一つの方向性さえ共有できていたら、いいんじゃないかなぁ。

身体表現であることは彼らにとって制限や限定ではなく、身体が言語と結びついて、より豊かな物語として構築されることを望んでいる。貪欲だからこそ、その現われは、きっと夾雑物を削ぎ落としたストイックなものとなるだろう。トリイホールでは「ダンスボックス」として、こまばアゴラ劇場では「大世紀末演劇展」として上演されるということが、何よりも彼らの表現の広がりを物語っている。

 

一本の指がどれほどの力を持ちうるか、一本の指にどれほどの力を込めうるかについて、残虐なまでに求心的な力を持ちえたステージとして、イシダトウショウのことはずっと覚えておこう/しかしその力がもしも「フリオ」という演劇の代償または補完によって成立したものだったとしたら、イシダの身体表現に関する考え方についてその自律性について慎重に考えてみなければならない/ダンスが演劇的であることの陥穽について、これは長い問題としてゆっくりと考えなければならない  (イシダトウショウらZLVZX+本木良憲 (1016日、プラネットステーション)「疑のダンス」)(JAMCi '96.2.

岩下徹

1957年東京生まれ。筑波大学中退。'82'85年石井満隆ダンスワークショップに参加、即興を学び、'83年ソロ活動を始める。'86年から現在まで舞踏集団<山海塾>舞踏手として全作品に出演。'88年から湖南病院非常勤職員として「ダンスセラピーの試み」を実施。日本ダンスセラピー協会理事、副会長。2000年から、京都造形芸術大学芸術学部映像舞台芸術学科特任助教授。
 かつて精神的危機から、自分の身体を再確認することで立ち直ったという経験を原点とする岩下のダンスは、テーマや振付のある<作品>ではなく、観客の前に等身大の身体一つで立ち、場との交感の中から生れる即興として踊られる。主な即興のシリーズ作品として、「みみをすます」(谷川俊太郎同名詩集より)、「放下」、また他ジャンルのアーティストとの即興「IMPROVISATIONS」。ワークショップも精力的に実施している。

  山海塾のメンバーとして、またソロダンサーとしてグローバルなスケールで活躍中の岩下徹は、「放下」「みみをすます」といった即興のステージを、様々な場所で数多く踏んできた。

即興の場合、今日はうまくいったなとか、もう一つだったなとか、そういうことはあるんでしょうか。

岩下 あります(笑)。その場の空気というか、エナジーを感じとって、それが自分の力となって動きになるわけですから、うまくいった時には、動きが詰まったり途切れてしまうことが少なくてすむようですね。踊っているとだんだんと緊張がほぐれてきて、同時にお客さんのほうもほぐれてくる感じがわかります。ご覧になっている方が、その人そのものをぼくの中に観ていただける、そういう鏡みたいな存在になっていけるとうれしい。等身大の生のからだ、丸裸というか、素手で人間が立つことの意志や力みたいなことを感じていただければ、と思います。それによって、適切な言葉じゃないかもしれませんけど、元気が出たり、ちょっと励まされたり、そんなふうになっていただければ、と。

 岩下の口から「元気の出るダンス」というような言葉が出ると、それだけで何だかとても元気が出るように思う。彼が近年手がけている精神病院を舞台にしたダンスセラピーにもそのままつながっていくのだろう。そして今春から岩下は、京都造形芸術大学の教壇に立つという。学生たちにどのような「元気」が伝わっていくのだろうか。

岩下 大学でも、普段ワークショップでやっていることをベースに、からだということの一番の基本をやれればいいなと思っています。ダンスに絞り込むんじゃなくて。

からだのことを、言葉で伝えていくのは困難なことだと、どこかで言っておられましたが。

岩下 できるだけ、ひらがなに限った言葉で言いたいと思ってるんですが、どうしてもそれだけでは片付かない事柄が出てきて、表現としては抽象的になってしまうことがあります。なぜそう動かなきゃいけないのかという、バックグラウンドとか意味づけとかについて語ろうとすると、どうしてもひらがなでは収まらなくなってしまうんですね。

どういうところから、動きのとっかかりを作っていかれるんでしょう。

岩下 自分のからだの感覚を確かめていってもらうことですね。まず、エクササイズをやって、それについてどう思ったか。たとえば床に寝転がる、その時の感覚。それぞれ生活環境とか出自も違っているわけですが、その感覚を確かめた上で、言語化することでシェア、共有できるわけです。そういうところから始めたいと思います。

動くことによって自分の中でどういう感覚が起きたか、一度言葉にする。言葉にすることで、自分の感覚と他の人の感覚を比べたりできる、ということですね。

岩下 そうです。その次には、他者と向き合う、かかわる。ペアでやることが多いんですけど、お互いにどう思うか、それをまた言語化するわけです。言葉によって明らかになっていくことも多々あるはずですし、逆に言葉ではどうしても括れない部分も出てくるでしょう。

 舞踏を出自として内面を彫り込むことからスタートした岩下だからこそ、からだを動かすことから発する感覚に言語を与えることを重視しているのだろう。

岩下 誰でもからだを持っている、あるいは誰もが「からだである」といってもいいんですが、そういう自分と向き合うということにおいてはみんな同じところに立っていると思うんです。ただ盲目的に疑いを持たずに動くのではなくて、すべての事柄に対して疑う、問い続けていくという姿勢を見につけていただきたい、と思いますね。いかに動くかということより、なぜ動くか、です。(20003月、インタビューから)


 岩下徹のソロ「LIEBE 1999」(1999730日、大阪・TORII HALL)は、タイトルの通り真っ正面から愛するということ、愛そのものをテーマにし、「赤いスイトピー」に始まって人口に膾灸した歌謡曲をたくさん使って観る者との回路を……作ったとも言えるし、崩したとも言えるところが面白い。ここで面白かったのは、岩下がいつも何ものかと格闘していたことで、なるほどそれは確かに愛するということの一つの特徴だ。「そして神戸」をバックに壁と格闘し、「好きになった人」では床と格闘する。きっとこのようにして愛が生成される。かといって物語を踊る比喩の動きでは決してなく、どこかに何かが想定されている動きであるということが、岩下の言うまでもない確かな動きの美しさとあいまって、静かな抒情を醸し出した。(「DANCEART」)

インバル・ピント・カンパニーは「オイスター」(演出=アヴシャロム・ポラック)から、短い小品を提示。柔らかさと剛さを兼ね備えたユニゾンには、ロボットのような可笑しさがあり、場面として独立した物語が感じられるのがいい。動きの反復によって哀切のようなものが感じられるのは、身体がいい意味での夢幻的な寓話性をもっているためではないか。長い作品を見たいと思ったが、横浜と筑波でしか公演がないというのがひじょうに残念。(ダンス・ショーケース(パフォーマンス・アート・メッセin大阪2001731日 グランキューブ大阪)


ウェン・ウイ

中国の女性ダンサー、ウェン・ウイによる「Bowing to the End」は、プログラムの文章にもあったように、性についての固着から生まれた作品であるようだった。爪先に力を入れて、股間を絞るような歩き方をする冒頭、まるで陰部が落下するのを押さえているような手の置き方、胸をかき抱くしぐさなど、多くの動きが性器の存在に収斂するようだった。特に、多用される爪先歩きについて、それによって醸し出される緊張感以上に、中国の纏足を思い出させることによって、ここで直面している問題がウェンが中国人であることでいっそう固有に深刻な問題であることを思わせた。

衣裳もまた象徴的で、ちょうどルーズソックスのようになっているのが、途中で束ねているのを解かれて長く引きずるかたちになり、またたくし上げて、最後はまるで洗濯物みたいに丁寧に折畳んでいくのが、女性として生きることの困難をよく表わしているようだった。

アジア・コンテンポラリー・ダンス・フェスティバル Bグループ  20011026日 トリイホール


 H・アール・カオス

'89年、大島早紀子(演出・振付家)と白河直子(ダンサー)により構成されたダンスカンパニー。'95年第27回舞踊批評家協会新人賞受賞。大島は、'96年米政府の正式招待振付家としてInternational Choreography Regencyに参加。


H.アール・カオス「Dolly/春の祭典」 2000923日 シアター・ドラマシティ

 「Dolly」のタイトルは、一時話題になったクローン羊の名。上手に接吻する2人を置き、それは愛と生殖のシンボルであろうことが知れる。DNAの螺旋を思わせるような光の連なりもある。それらは確かにDollyの指し示すものを知っているからわかることではあるが、このことは当日のプログラム等に明示されている以上、そう知った上で見られることを望んでいると思う他はない。

 そうすると、白河がいつもの速く鋭い動きで現れたかと思うと、蛍光管の白色光を放つ、蓋を取ったコピー機のような箱を開けてしまった時、これはいわゆるパンドラの匣を開けたのだと、つまり人類が遺伝子による生命操作という開けてはならない扉を開けてしまったということの直接的な喩であることも、はっきりと理解される。

 彼女の背後には、影のダンサーが一人、また一人と現れる。クローンをあらわしているのだろう。はじめはユニゾンで動いているのが、少しずつずれていくのも、たやすく意味として追うことができるようになっている。

 白河の動きでどうしても気になるのは、速くて鋭くて力強いのは十分によくわかるのだが、その対照となる柔らかい弛んだ動きを決して見せないことだ。つまり、放り投げるような柔らかさ、アンコントロラブルともなりうるぶらんとした動き、ドライブ感といった、リリースによって生じるものを排除することによって、近年の彼女は世界を成立させようとしているようだ。ぼくはこのことについて、せっかくの一つのテクニックを捨てているようにしか思えず、もったいないと思えてしょうがない。ラストに置かれた白河一人の祈りのシーンでさえも、柔らかさを見せようとしない。かつての白河で息を呑んだ、指先が微かに震え続けているような緊迫感さえも排除されているようだ。つまり、計算できない身体性から生じる情感を排除しようとしているのではないか。等身の外に伸びゆく動きを見せないということが、相当の覚悟の上の選択であることだけは確かなのだ。

 「春の祭典」について、今さら何を付け加えるまでもないが、ここでの吊り下げられた椅子や身体の乱舞は、いま述べたアンコントロラブルな動きの排除という点から見ても、興味深いかもしれない。つまり、ワイヤーという道具を使った動きは多用しても、動きはあくまでコントロラブルであろうというのだろうか。これは身体表現を最後まで覚醒させていようという決意であるようにも思える。

 にもかかわらず、この飛翔や回転や浮遊、水飛沫の放物線の美しさによって、客席の温度は数度上がってしまい、ほとんどアンコントロラブルなまでの興奮を受け取ってしまうというのは、一種のアイロニーなのだろうか。


岩崎永人の流木を構成した生とも死とも分けがたいトルソの前で展開されたH.アール・カオスの小さな公演は、そのスピードと堂々とした動き、一つの禁則を与えることで出現する究極的な激しさが忘れられない/衛星放送で見ることのできた映像の美しさと相俟って、しばらくぼくの心を支配している (19951010日、キリンプラザ大阪)「皮膚のイストワール」 (JAMCi '96.2)

H・アール・カオスの白河直子が、岩崎永人による流木を組み合せた彫像の中で踊った「祈り」(731日、キリンプラザ大阪)は、それだけでも独立した作品ではあろうが、岩崎の作品との関連性をふまえて観ることで、より面白い時間となった。性別不詳の、かつては生命であった木片が精妙に組み合わされたトルソと白河の身体の類縁性を探ることもスリリングだったし、白河がそれこそ屹立する様がトルソのようだと楽しむこともできた。この短い作品は、動きが全体に空間を斬るような鋭い動きで通され、緊迫した中にもやや単調さを感じたが、それも岩崎のトルソとの対話によって救われた部分がある。(「DANCEART」)


ENTEN

'94.7月にYEN-TENとして設立された、音楽、ダンス、うた、コスチューム、映像等の複合ユニット。形態の多様さと、ジャンルに属そうとしない独自の即興スタイル、作品内容が特徴。
 '96秋、ENTENに改名し、現在のメンバーにいたる。ダンス・音楽・造形が、単なるコラボレーションではなく、すべてが一緒で初めて存在するような、密接なコミュニケーションの成立したチームを自負している。
 音楽は、強力なビートサウンドと、効果音・ヴォイス・トイズなどの遊び心溢れる音源の間を行ったり来たりする。ソコニ、パフォーマーから出される声、足踏みの音、手拍子などが絡み、パフォーマー(ダンサー)は、単純な動きの反復・切れのあるダンス・日常の動作からのモチーフ・声を発しながらの動き・映像とのコミュニケーションダンスなどを展開しながら、音楽とコミュニケートする。
 常に異なったジャンルからメンバーが集まっているため、ダンス公演、ライブ、セッション、とその都度多彩なスタイルで公演を行う。
 もっとも大事にされるものは、参加者の個々人の個性やエネルギーである。そのため、強力な演出で束縛することをせず、コミュニケーションをより密接にし合うという訓練を重ねた上で、即興性を大切にする。

「ZAP」 200177日 トリイホール

いつも多くの要素を詰め込んでミクスドメディアの世界を披露するENTENが、今回はかなり禁欲的で、こらえた感のある作品を提出した。一つには、身体でかたちを作ることが目的とされていたのではないか。そしてもう一つに、二人の身体で遠さを作ることが。

男がさまよう者であるかのように歩く時、彼は歩くことがストロボ光を浴びているように微分されていることを知っている。ワイエスの描くヘルガのように上体をあげる女は、断片をつなぐかのようにゆるやかさそのものを描く。二人は不意に去る。残された舞台に、はじめからそこに置き去りにされていた二つの身体が残って、やっと人に見られることを得たかと思うと、また不意に去る。

このような一連の流れは、控え目に言っても、かなり気を持たせるものだった。表情のないゆっくりとした動きは、何かのようだと焦燥感を持たせるのに、決して何かのようではない。動きがゆっくりなのは、何かに引かれているのか、重しを付けられているのか、わからない。動き自体はミニマルにとどめ、そのことによって一つの境地のような世界を作ろうとしたのではないか。

作品のラストでは、4人がパズルのような幾何学的な動きをとり、やがて相当激しく元気のいい、いつもの(?)ENTENらしいシーンが展開されていくぶんホッとさせられる。普段のENTENがどのような過程を経て実現されているのかを、と言うよりは、二人がわかりあうためには、どれほどの時間が必要かを示したものだったのかもしれない。

たとえば竹ち代の特徴的な歩行は、それだけでなにがしかの感情を観る者に呼び起こす。二人が歩いて近づくこと、声で呼びあうことがどれほど強い力を持っているかを、じゅうぶんに、痛いほど知っている彼らだからこそ、二人の間の遠さそのものを用心深く測ってとらえ、それを湛える静かな池のような存在であろうと求めたのではなかったか。(「ダンスボックス通信」掲載)

身体のオリジナリティの獲得のために〜大谷燠

 ダンスや舞踏の公演を、情熱的かつ献身的に打っているトリイホールの大谷さんが、実はかつては舞踏家で……ということは、一つの伝説のように耳にしていた。大谷さん自身のよって来たるところを知りたいと電話をしたら、「踊るプロデューサーだから」と笑っていた。そう、きっと何かが踊っているのだ。

− そもそも舞踏に出会われたきっかけはどういうことだったんですか?

大谷 高校時代は演劇をやってまして、その中で身体への興味はあったんですけど、京大の西部講堂で土方巽さんの作品を芦川羊子さんたちが踊っているのを見たことがあったんですね。それで非常に衝撃を受けまして、三日三晩うなされました(笑)。大学で東京へ行っても演劇は続けたんですが、悶々としている、という感じだった。そんな頃、ちょうど新宿の映画館で、「四季のための二十七晩」という土方巽の二十一日間連続公演というのがあって、日参しました。いよいよ「舞踏しかない」と思って、最後の日とうとう土方さんをトイレで待ちぶせして「弟子にして下さい」って直訴したんです。男の弟子は取ってないということで、ビショップ山田の舞踏塾を紹介された、というわけです。

文化にも人にも時代の相というものはあるだろう。それにしても、なんと劇的で直線的な情熱だろうか。

− ビショップさんの所では、どんなことをされたんですか? すぐに舞台に立たれたんでしょうか。

大谷 集まった年の夏には大駱駝艦から独立して鶴岡に行って、北方舞踏派を旗上げするんですが、舞踏っていうのは衣食住丸ごと踊りにならないとダメだっていうことは肌で感じていました。とにかく毎日、踊りのことばかりでしたね。稽古とキャバレーのショー。

− ショーって、具体的には?

大谷 男は金粉ショー、芸能ですよ。観念とか芸術とかいう意識をいったん削ぎ落とすわけ(笑)。このキャバレー回りという収入源があったから、踊りのことだけ考えていられた。一日五時間ぐらい、体操(野口体操)、バレエのバーレッスン、ショーの稽古、そして舞踏。

− 何だかうらやましいような……。

大谷 今から思えば豪華な時間、舞踏を作るためには恵まれた環境ですね。

 現在の若いダンサーたちは、毎日五時間もダンスだけに没頭できる環境があるだろうか、と大谷さんは心配する。

大谷 「稽古できてないね」って言うのは簡単だけど、今の環境では、稽古を重ねることができないだろうと思うんです。稽古してないと、頭で作る部分が大きくなってしまう。アイデアとか発想で作ってしまって、それはそれで面白いんだけれども、表現の根底に身体性というものが成立しているかどうか。もう少し身体から発散してくるものが自立していかないと。

− 稽古の量のこともあるでしょうけど、今の時代の空気として、そういうものが求められないということもあるでしょう。

大谷 ええ。いい悪いの問題ではないですけどね。でも、アメリカでもヨーロッパでもダンスの土壌がちゃんとあって、ダンサーとして強い身体を持っている人は、日本より多い気がします。日本のアーティストには、海外で勝負するための身体的なオリジナリティを作ってほしい。舞踏は一つ作ったから、新しい何かを作ってほしい。今ぼくは、若いダンサーにとっていい状況を作りたいと思うんです。トリイホールはその一つ、公演の現場というものを作るということなんです。(200074日、トリイホールにて)

尾沢奈津子を中心としたN-TRANCE FISH「それでもぼくらは生きている」(1999418日、メルパルクホール)のダンスショーとしての見せ方の間然のない楽しさにもふれておこう。上海太郎舞踏公司や宝塚歌劇にも通じる、ちょっとしたストーリーと反復を与えて観客を飽きさせない構成もあって、面白い公演となった。特に室町瞳や尾沢自身のような動きの定まった者が出てくると、格段に締まる。(PAN Press

大野一雄

1906年、函館生まれ。'49年、神田共立講堂にて第1回大野一雄舞踊公演。「鬼哭」「タンゴ」「リルケ・菩提樹の初花が」。'60年、第一生命ホールにて土方巽DANCE EXPERIENCEの会。'77年、同所にて土方巽演出「ラ・アルヘンチーナ頌」。'80年、ナンシー国際演劇祭参加に続き、欧州各国を巡演。代表作に「わたしのお母さん」「死海」「睡蓮」など。現役最年長の舞踏界の第一人者である。その活動は日本にとどまらず、欧米、アジア、南米へと広がり、「世界のオーノ」として輝いている。

インタビュー
「たとえば桜の花が美しければ/そこに霊が引き寄せられ/自然に手が、 からだが動いてしまう/それが感動、舞踏、すべての原点なのだ」(全文)

op.eklekt

オプス・エクレクト。京都・東山を本拠に、金谷暢雄、奥睦美による、ジャンルの枠を超えたパフォーマンスを目指すユニット。'94年、バニョレ国際振付賞東京プラットフォームに「東方見聞録」で、スザンヌ・デラール・インターナショナル・ダンス・コンペティション(イスラエル)に「白昼夢」でノミネート。'95年、東京国際舞台芸術フェスティバル参加。

 自分たちの動きを執拗に意識化し、宙吊りにしているように思える点では、オプス・エクレクトを並べてもよいだろう。9月19日の「東方見聞録」と題された公演(OMS)で印象に残ったのは、異人の眼ざしだ。蠅張、風呂敷、拍子木、算盤、饅頭、相撲、茶道、書道……そんな日本的な小道具やしつらえが醸し出すのは、妙な居心地の悪さだった。これまでぼくは、彼らのこのような日本の表現に対してどうにも理解不能だと諦めかけていたが、今回、東方見聞録というタイトルや伴天連のような衣裳から、彼らが旅行者である異人の眼ざしで日本の文物、日常生活を眺め、理解し、再現しようとしているのであったことに思い至り、初めてずいぶん楽しむことができた。                     (JAMCI '95.12)


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